あなたは私を知りうるか。あるいはあなたはそこにいるのか。

「あなたの気持ち、わかるよ」。

こうした言葉を向けられた瞬間に、胸のどこかがすっと冷えたことはないだろうか。

善意だとわかっている。慰めようとしてくれている。でも、何かが閉じる。あなたが抱えているものは、あなたの身体を通り、あなたの時間の中で発酵し、あなただけの文脈と絡み合って、ようやくその形をとった。それを誰かが五文字で引き受けようとする。あなたの経験は、相手の過去のどこかに似た何かに置き換えられ、その置き換え版だけが「理解」と呼ばれる。

わかってもらえたとは思わない。わかったことにされた、と思う。

この違和感の正体を、少しだけ掘ってみたい。

通じない言語

そもそも、言葉は思っているほど共有されていない。

「悲しい」と言うとき、あなたの「悲しい」と相手の「悲しい」が同じ感覚を指している保証はどこにもない。同じ単語、同じ文法、同じ言語。それなのに、その裏側で動いている感覚も記憶も身体の感触も、全部違う。

ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』の中で、いわゆる「私的言語」の問題を考察した。痛みのような私的な経験を、公的な言語で正確に捉えることはできるか。彼の議論が示唆するのは、言語はそもそも共同体の実践の中で意味を得るものであり、純粋に私的な言語はありえない、ということだ。

ただし、これは裏を返せば、あなたの言葉は常に公的な鋳型に流し込まれている、ということでもある。あなたの「悲しい」は、日本語話者がこの語を使う慣習の中に収まる範囲でしか伝わらない。鋳型からはみ出した部分、あなただけの「悲しい」の質感は、言葉にした瞬間に切り落とされる

会話が成立しているように見えるのは、切り落とされた部分にお互いが気づいていないからだ。あるいは、気づかないことにしているからだ。

あなたが一番大切な人に、一番大切なことを、一番正確な言葉で伝えたとする。それでもその言葉は、相手の中で、あなたの知らない色に染まる。

翻訳者のいない部屋

他者を理解しようとすることは、翻訳に似ている。

相手の言葉を聞き、自分の経験の辞書で引き、自分の感覚の文法で並べ替える。しかし完全な翻訳が存在しないことは、二つの言語に触れたことのある人間なら直感的にわかるだろう。どれほど精密に訳しても、原文にあった何かが零れ落ちる。語の響き、文化の含み、行間の空気。

人間どうしの間でも同じことが起きている。しかも、この翻訳には致命的な条件がある。原文を直接読むことができない。相手が発した言葉という不完全な写しだけを手がかりに、その背後にある経験を推測する。二重、三重のフィルターを通した、歪みだらけの再構成。

そしてその再構成を、「理解」と呼んでいる。

厄介なのは、翻訳がうまくいっているかどうかを確かめる方法がないことだ。原文を読めるのは相手だけで、あなたの翻訳が正確かどうかを判定できるのも相手だけだ。しかし相手もまた、あなたの翻訳を自分の辞書で解読し直すしかない。正確さを保証してくれる第三者は、どこにもいない。

誰もが、翻訳者のいない部屋で、それぞれの言語を話している。通じていると信じている。通じているかどうかを、確かめる方法がないまま。

触れられない顔

エマニュエル・レヴィナスは、もっと根源的なことを言った。

レヴィナスの哲学の核にあるのは、他者の「顔(visage)」という概念だ。ここで言う顔は物理的な顔貌のことではない。他者が目の前に現れたとき、その存在が私の認識の枠組みに収まることを拒む、という事態そのものを指している。

1961年の『全体性と無限』で、レヴィナスは西洋哲学の根本的な傾向に異議を唱えた。西洋哲学はすべてを「全体性」のもとに包摂しようとしてきた。世界を体系化し、概念で秩序立て、理解可能なものとして回収する。しかし他者は、この全体化の運動に亀裂を入れる存在だ。他者の顔は「無限」を宿しており、把握しようとした瞬間にすでにそこからはみ出している。

理解しようとすること自体が、ある種の暴力になりうる。相手を「わかった」と思う瞬間、それは相手を自分の概念の体系に回収し、その他性を消し去る行為にほかならない。他者を理解することは、他者を他者でなくすることだ。

極端に聞こえるかもしれない。でも、「わかるよ」と言われたときのあの冷えを思い出してほしい。自分という存在が、相手の枠組みに押し込められる感覚。回収される感覚。他者であることを許されない感覚。レヴィナスが哲学の言葉で記述しようとしたのは、たぶん、あの感覚とそう遠くないものだ。

もしレヴィナスが正しいなら、あなたが誰かを深く理解したと感じた瞬間は、まさにその人を見失った瞬間だということになる。たとえ心そのものを覗く力が手に入ったとしても、見えた瞬間にそれは「他者」ではなくなる。

重ならない景色

レヴィナスほど峻厳でない視座もある。

ハンス=ゲオルク・ガダマーは『真理と方法』(1960年)で、「地平の融合(Horizontverschmelzung)」という概念を示した。

ガダマーの言う「地平」とは、ある人間がそのとき見渡せる視野の全体だ。経験、教育、文化、言語、先入見。そのすべてがあなたの地平を形作る。他者もまた別の地平を持っている。理解とは、二つの地平が接触し、部分的に重なり合うところに生じるものだ。

ただし、この「融合」は二つの地平が一致することではない。一方が他方に吸収されることでもない。互いの地平が触れ合い、その接点から、どちらの地平でもなかった新しい意味の場が一瞬だけ現れる。しかしその場は、次の瞬間にはもう動いている。地平は止まらないからだ。

レヴィナスよりは穏やかだ。完全な理解は不可能だとしても、地平が重なる瞬間はある、と。

けれど、裏を返せばこういうことでもある。理解できるのは、重なった部分だけだ。重ならなかった部分は、見えもしない。どこが重なっていてどこが重なっていないのかを知る方法もない。

あなたが誰かと深い会話をして、「通じ合えた」と感じた瞬間。それは地平がたまたま接した一点にすぎない。その一点の外側に広がっている、見えない景色のほうがはるかに広い。しかも、あなたが見ているその一点すら、本当に重なっているのか、重なっているように見えるだけの別々の景色なのか、確かめようがない。

共感は届かない

心理学の側からこの問いに向き合った人もいる。

カール・ロジャーズは来談者中心療法の中核に「共感的理解」を据えた。セラピストがクライアントの内的準拠枠に入ろうとすること。相手の感情を、あたかも自分自身のものであるかのように感じ取ること。ただし「あたかも(as if)」という条件を決して見失わないこと。

この「あたかも」が重要だ。相手の感情に完全に同化すれば、それは共感ではなく巻き込まれになる。ロジャーズが求めたのは、自他の境界を保ったまま、相手の世界に一歩だけ踏み込む態度だった。

理論としては美しい。しかしロジャーズ自身、この共感を「完全に達成された状態」としてではなく「近づき続けるプロセス」として語っていた。共感は到達点ではなく、方向だ。永遠に「あたかも」のまま、届ききることはない。

そしてこの構造こそが、理解の不可能性をもっとも丁寧に認めた形なのかもしれない。わかることはできない。でもわかろうとし続けることはできる。ただし、その営みの中で本当に相手に近づいているのか、それとも自分の投影を精緻にしているだけなのかは、永遠に判別がつかない。

近づこうとするほど、距離の正確な輪郭が見えてくる。近づけば近づくほど、届かないことがはっきりする。共感とは、絶望を丁寧に測定する行為なのかもしれない。

矛盾した飢え

ここで問いの向きを変える。

あなたは、理解されたいだろうか。

たぶん、そうだ。自分の痛みをわかってほしい。喜びを分かち合いたい。孤独は耐えがたい。理解への渇望は、もっとも根源的な飢えの一つだろう。

しかし同時に、「完全には理解されたくない」という領域も、あなたの中にあるはずだ。自分だけのものにしておきたい感情。言葉にした瞬間に壊れる何か。他者の目に晒したくない、やわらかい場所。

理解されたい。理解されたくない。二つは正面から矛盾している。けれどどちらも切実に本物だ。

ここに答えはない。たぶん、答えがないということ自体がこの矛盾の正体だ。人は理解を求めて手を伸ばし、理解が近づくと手を引っ込める。その繰り返しの中で何かが解決されることはない。何十年続けても。

誰にも読まれない原文

レヴィナスは理解を暴力だと言った。ガダマーは地平が重なる一瞬があると言った。ロジャーズはわかろうとし続ける態度を語った。

三者に共通しているのは、完全な理解がありえないことを出発点にしていることだ。「わかりあえる」という素朴な信頼は、どの思想にも残っていない。

それなのに、人は「わかるよ」と言い続ける。「わかってほしい」と思い続ける。不可能だと知りながら。あるいは、知らないふりをしながら。

ただ、ここからが本当の問いだ。

他者を理解できないのだとして、あなたは自分自身を理解しているか。自分の感情がなぜ生じたのか、本当にわかっているか。自分が何を望んでいるのか、正確に言葉にできるか。あなたの内側にも、あなた自身にとっての「他者」がいないと言い切れるか。

もし自分すら理解できないのだとしたら、「理解」という語は、いったい何を指しているのか。私たちはありもしないものを求めて、ありもしないものを差し出し合っているのか。

あなたの隣にいる人は、あなたのことをわかっていない。あなたもその人のことをわかっていない。そしてあなたは、自分自身のこともわかっていない。三重の孤独の中で、人は何十年も一緒に暮らし、言葉を交わし、笑い合い、泣く。

あなたが死んだとき、あなたを「わかっていた」と思う人が何人かいるだろう。でもその人たちが失うのは、あなたではない。あなたの翻訳版だ。あなたという原文は、最初から誰にも読まれたことがない。

あなたがいま一番近くにいると思っている人のことを、考えてみてほしい。その人について、あなたは何を知っているか。

何も知らない。知っているのは、あなたの経験と想像力で組み上げた、その人の模型だ。精巧かもしれない。でも本人は、その模型の外側にずっと立っている。

あなたがその人を愛しているとして。あなたが愛しているのは、その人なのか、それとも模型のほうなのか

この問いに答えが出る日は来ない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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