4000週間の暇つぶし

あなたが平均寿命まで生きるとして、残りの夏はあと何回来るだろう。仮に60回としよう。60回しかない、と思っただろうか。60回もある、と思っただろうか。

どちらでもいい。その感想は、どうせ何も変えない。

明日も同じ時間に目が覚めて、同じように一日が始まり、同じように終わる。残りの夏が60回だろうと600回だろうと、月曜日の朝の憂鬱さは1ミリも変わらない。

それなのに、なぜ人はこういう数字を知りたがるのだろう。

永遠だったはずの夏

覚えているだろうか。子どもの頃の夏休みが、どれほど長かったか。毎日が途方もなく広くて、退屈すら贅沢品だった。プールの水面に跳ねる光、アスファルトの陽炎、夕暮れの蜩。あの夏は確かに永遠だった。

ところが今はどうか。一年が一瞬で終わる。気がつけば春が来て、気がつけば年末で、気がつけばまた一つ歳を取っている。カレンダーの上では同じ365日なのに。

19世紀のフランスの哲学者ポール・ジャネは、この感覚にひとつの仮説を残した。主観的に感じる時間の長さは、その人の年齢に反比例するというものだ。10歳にとっての1年は人生の10分の1。50歳にとっての1年は50分の1。同じ1年でも、歳を重ねるほど全体に占める割合が小さくなり、短く感じる。いわゆる「ジャネの法則」と呼ばれる経験則だ。

直感にはよく合う。ただし、これは「説明」というより「描写」に近い。なぜそう感じるのかを解明したわけではなく、「確かにそう感じる」と整理したに過ぎない。心理学では、同じ年齢でも状況や経験の新しさによって時間の感じ方はまるで違うことが指摘されており、年齢だけでこの感覚を説明しきることはできない。

それでも、あなたの去年が小学生の夏休みより短く感じたという事実は、そこにある。説明されようがされまいが。

4000個の空箱

2014年、ティム・アーバンはブログ「Wait But Why」に「Your Life in Weeks」という記事を書いた。人生を週単位で可視化する、ただそれだけの試みだ。

80歳まで生きるとして、人生はおよそ4000週間。アーバンはそれを一つひとつの小さな箱として並べ、一枚のグリッドにした。計算は小学生でもできる。80かける52。それだけのことだ。

それだけのことなのに、あの画像はインターネットで広く共有された。多くの人が自分のすでに塗りつぶした箱を数え、残りの空箱を見つめ、何かを感じた。恐怖だったかもしれないし、焦りだったかもしれないし、あるいは、予想外の静けさだったかもしれない。

アーバン自身はこう記している。あの空箱のグリッドは「自分のものだ」と。どう塗るかは自由であり、どんな人生を送った偉人も英雄も、同じグリッドの上でそうしてきたのだと。

ただ、自由があることと自由を使えることは、まったく別の話だ

4000個の箱を前にして、あなたは何を塗るだろうか。そもそも、塗らなければならないのだろうか。空箱のまま終わることは、本当に悪いことなのか。

2000年前から誰も答えていない

この種の問いに向き合ったのは、最近の話ではない。

紀元1世紀、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて(De Brevitate Vitae)』を書いた。その書き出しは、こうだ。

われわれに与えられた時間が短いのではない。われわれがその多くを浪費しているのだ。

セネカの主張は明快だった。人生は十分に長い。偉大なことを成し遂げるにも余りあるだけの時間が与えられている。それなのに人々は、くだらない忙しさに時間を差し出し、他人の期待に人生を明け渡し、自分のために使える最後の瞬間になってはじめて、時間が過ぎ去っていたことに気づく。

2000年前の文章だ。それなのに、今読んでも痛い。

セネカの指摘が厄介なのは、「時間がない」という弁解を根こそぎ奪うところにある。短いのではなく浪費しているだけ。そう言われたら、もう他人のせいにはできない。そして残りの夏が60回あろうと、そのすべてを浪費する自由もまた、あなたにはある。

毎朝の問いは何も救わない

2005年、スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、死について語った。毎朝、鏡の前に立ち、自分にこう問いかけていたという。

もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やろうとしていることをやりたいだろうか?

「No」の答えが何日も続くようなら、何かを変えなければならないと。

美しい話だ。だが、ここにも問いが残る。

あなたは毎朝、鏡の前に立って、残り時間について考えるだろうか。考えたとして、何かを変えるだろうか。おそらく、変えない。月曜の朝に「今日が最後の日なら」と問うて、仕事を辞める人はまずいない。生活があり、責任がある。そして何より、今日が最後の日ではないことを、あなたはよく知っている。

ジャネの法則は時間の加速を描写した。アーバンは人生を4000個の箱に収めた。セネカは浪費を断罪した。ジョブズは毎朝の問いを提案した。それぞれが、残り時間という問いに異なる角度から光を当てている。

それなのに、どれも答えにはなっていない。

時間が加速すると知っても、加速は止まらない。4000週間だと知っても、来週は変わらない。浪費だと知っても、浪費はやめられない。毎朝問いかけても、答えは毎朝同じだ。

つまり、問題は最初から「知らないこと」ではなかったのだ。

それでも数えてしまう

それでも、人は残りの夏を数える。

あと何回桜を見るか。あと何回大晦日を迎えるか。あと何回、誰かと声をあげて笑うか。意味がないと知りながら、数えてしまう。

たぶん、数えること自体に意味があるのではない。数えたくなる自分がいる、ということに意味がある。残りの夏を数えるのは、まだ夏を惜しんでいるということだ。惜しむことをやめた人間は、数えない。

ただし、正直に言っておく。これもまた答えではない。「惜しんでいるから数えるのだ」と理屈をつけたところで、焦りが消えるわけでも、時間がゆっくりになるわけでもない。少しだけ、自分が何に揺さぶられているかが見えるようになるだけだ。

見えたところで、あなたの4000週間は、今この瞬間にも一つ減っている


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