Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

大学生活

誰も口を開かない最初の五分間が決めるすべて

「じゃあ、どうする?」 グループワークの最初の5分は、だいたいこの一言から始まる。そして、この一言が出た時点で、すでに崩壊は始まっている。 沈黙の5秒間 4人グループが組まれる。先生が課題を説明し、「では、グループで話し合ってください」と言う。全員が顔を見合わせる。1秒、2秒、3秒。誰も口を開かない。4秒目に誰かが言う。「じゃあ、どうする?」 この「どうする?」は問いのように見えて、問いではない。「誰かやってくれ」という無言の要請だ。そして残りの3人も同じことを思っている。全員が「誰かが始めてくれるのを待っている」状態。これがグループワーク崩壊の第一段階だ。 役割分担という儀式 沈黙に耐えかねた誰かが言う。「じゃあ、役割分担しよう」。 ここで起きるのは、役割の「押し付け合い」ではなく「引き受け合い」の失敗だ。「リーダー誰がやる?」と聞かれて、自分から手を挙げる人はほとんどいない。挙げたら最後、全部の責任を背負わされると直感でわかっているからだ。 結果として、もっとも断れない人がリーダーになる。もっとも声が大きい人ではなく、

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

読む前の自分はもういない

あなたが誰かに本を贈るとき、あなたはその人の好みに合った本を選ぼうとする。しかし、本当に良い本は、読んだ人の好みそのものを変えてしまう。つまりあなたは、「読む前の相手」の好みで本を選ばなくてはならないのに、その本が成功すればするほど、「読んだ後の相手」は別の人間になっている。贈り物は届いたときにはもう、届くべき相手がいない。 これは本の話に限らない。人生のあらゆる重要な選択が、この同じ構造を持っている。 あなたはまだその本を知らない 哲学者L.A.ポールは2014年の著作 Transformative Experience で、こうした状況を「変容的経験(transformative experience)」と呼んだ。ポールによれば、変容的経験には二つの特徴がある。第一に、経験する前にはそれが「どのようなものか」を知ることができない(認識的変容性)。第二に、経験することで自分の核心的な選好や価値観が変わる(個人的変容性)。 子供を持つこと。恋に落ちること。重い病の診断。宗教的回心。初めて海外で暮らすこと。これらはすべて、経験する前と後で世界の見え方が根本的に変わる出来事だ。

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大学生活

終わらない議論の果てに立つということ

哲学科に入るまで、議論は結論を出すためにあると思っていた。 意見をぶつけ合い、正しい側が勝ち、間違った側が折れる。そうして一つの答えにたどり着くのが議論だ、と。テレビの討論番組はそういう前提で設計されているし、ディベート大会にはいつも勝者がいる。議論は決着するもの。それが常識だった。 哲学科に入って、その常識が崩れた。 ゼミで議論していると、終わらない。30分経っても、1時間経っても、結論が出ない。しかも誰もそれを問題だと思っていない。教授は「いい問いが出ましたね」と微笑んで、さらに議論を深める方向に舵を切る。結論を出す気配がない。最初は戸惑った。全員の議論の仕方が下手なのかと思った。しかしそうではなかった。哲学の議論は、終わらないのが正常だった。 なぜ終わらないのか。理由は三つある。それを知らないと、「哲学は結論が出ない無駄な学問だ」という誤解のまま終わる。 前提の無限遡行 哲学の議論が終わらない最初の理由は、前提が底を持たないことだ。 どんな主張にも前提がある。「人を殺してはいけない」という主張の前提は何か。「人間の生命には尊厳がある」かもしれない。ではなぜ人間の生

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大学生活

大学の専攻というかゼミの選び方

大学3年になると、多くの学生がゼミを選ぶことになる。あるいは研究室を選ぶ、指導教員を選ぶ、専攻を決める。呼び方は大学によって違うが、やることは同じだ。卒業論文で何を書くかを、このあたりで決める。 この選択を「将来の就職に有利かどうか」で決める人がいる。「友達がいるから」で決める人もいる。「楽そうだから」で決める人もいる。どれも間違いではない。ただ、もうひとつ、もっと素朴で確かな基準がある。 その分野のスタンダードな読み物を、読めるかどうか。 読めるかどうかで判断する どの学術分野にも、入門者がまず参照すべき定番のリソースがある。教科書、百科事典、論文データベース、学術雑誌。それらは、その分野の知見を体系的にまとめた一次的な参照先だ。 たとえば哲学なら、以下のようなものがある。 * Stanford Encyclopedia of Philosophy(plato.stanford.edu)。スタンフォード大学が運営する査読付きの哲学百科事典。各項目はその分野の専門家が執筆し、定期的に更新される。無料で全文が公開されており、学部生から研究者まで幅広く参照されている。 *

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哲学を読む

楽譜だけが時を巡り続ける

あなたが聴いているその曲には、作曲者がいない。 未来から来た誰かが、楽譜を過去の作曲家に手渡す。作曲家はそれを演奏し、曲は世界に広まり、やがて未来の誰かがその楽譜を手にして、過去へ持っていく。曲はいつ書かれたのか。誰が書いたのか。答えはどこにもない。ブートストラップ・パラドックスと呼ばれるこの問題は、「矛盾」ではない。もっとたちの悪いことに、筋は通っている。ただ、すべてのものに始まりがあるという私たちの根源的な信念を、静かに、丁寧に、踏みにじる。 靴紐を引っ張って空を飛ぶ ブートストラップという名は、「自分の靴紐を引っ張って自分を持ち上げる」という英語の慣用句から来ている。物理的に不可能なことの比喩だ。しかしこのパラドックスは、不可能なことが論理的には矛盾しないという、より気味の悪い事態を指している。 構造はこうだ。事象Aが事象Bを引き起こし、BがCを引き起こし、CがAを引き起こす。因果の鎖が閉じたループになっている。どの事象もほかの事象によって引き起こされているから、それぞれの事象には「原因」がある。だが全体を見渡すと、このループそのものの原因はどこにも見当たらない。始まり

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日常の構造

信じた者から沈んでいく

信頼しろ、と世界は言う。協力は美徳であり、裏切りは悪だ、と。だが、もしあなたが合理的であればあるほど、裏切ることが唯一の正解になる構造があるとしたら。囚人のジレンマとは、善意を持つことが構造的に不利になる世界の設計図だ。 二人の囚人、二つの部屋 1950年、RAND研究所のメリル・フラッドとメルヴィン・ドレシャーが一つの実験を設計した。のちにアルバート・タッカーが「囚人」の物語として再定式化し、この名がついた。 二人の共犯者が別々の部屋で尋問されている。互いに連絡はとれない。選択肢は二つ。黙秘するか、自白するか。 両方が黙秘すれば、証拠不十分で軽い刑になる。片方だけが自白すれば、自白した方は釈放され、黙秘した方は最も重い刑を受ける。両方が自白すれば、両方ともそこそこの刑を受ける。 さて、あなたは黙秘するか、自白するか。 裏切りが「支配戦略」になる 相手が黙秘するなら、自白したほうが得だ。釈放されるから。相手が自白するなら、やはり自白したほうが得だ。最悪の刑を避けられるから。相手が何をしようと、自白が合理的な選択になる。 ゲーム理論はこれを「支配戦略」と呼ぶ。

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ことばと文学

古典文学に挫折する構造

何度も挑戦して、何度も挫折する。読むべきだと分かっている。教養として、あるいは純粋な興味から。しかし開いてみると、最初の数ページで手が止まる。 古典文学に挫折する経験は広く共有されているのに、その原因が正確に分析されることは少ない。「難しいから」で片付けられることがほとんどだ。しかし「難しい」という一語は、まったく異なる複数の障壁を一つにまとめてしまっている。 挫折の構造を分解してみたい。 言葉の壁は、実は一番低い 古語の壁。これが最初に思いつく原因だろう。 「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。」 源氏物語の冒頭だ。現代の日本語話者にとって、これは外国語に近い。文法も語彙も、日常の言葉とかけ離れている。辞書を引けば一語一語の意味は取れるが、文全体の流れが掴めない。リズムが身体に入ってこない。 しかし古語の壁は、実はもっとも対処しやすい壁でもある。現代語訳がある。 角田光代による源氏物語の現代語訳(河出書房新社「日本文学全集」、2020年完結)は、原文の世界観を保ちながら現代の読者が抵抗なく読

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生きること

決断できない状態の構造

どちらにするか決められない、と言ったとき、周囲の人間は「どっちでもいいから早く決めろ」と言う。たぶん、その通りだ。どちらでもいい。だからこそ決められない。 似すぎた選択肢 選択肢が二つある。どちらも同じくらい魅力的で、どちらも同じくらい不安がある。AにはAの利点があり、BにはBの利点がある。Aを選べばBの利点を失い、Bを選べばAの利点を失う。 心理学者バリー・シュワルツは『選択のパラドックス』の中で、選択肢が多すぎると人は決断できなくなり、たとえ決断しても満足度が下がると論じた。だが、選択肢が二つしかなくても決断できないことがある。問題は量ではない。選択肢の間の差が小さすぎることだ。 ふたつの選択肢が似ていれば似ているほど、どちらかを選ぶ理由が見つからなくなる。中世の思考実験に、ビュリダンのロバがある。等距離に置かれた二つの干し草の束の間で、どちらに行くか決められずに餓死するロバ。何でもいいと思えるほどに選択肢が拮抗しているとき、「何でもいい」は「何も選べない」に変わる。 正解があるという呪い 決断を阻むもうひとつの構造は、「正解がある」という思い込みだ。 就職先を選

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倫理と思考実験

波の上で誰を見捨てるか選ぶ

あなたは今、ボートの上にいる。海にはまだ人がいる。手を伸ばせば届く。でも、伸ばした瞬間にボートが傾いて、あなたも沈む。だから手を引っ込める。そしてその夜、ぐっすり眠る。 これは比喩ではない。あなたの今日そのものだ。 ボートの定員 1974年、生態学者ギャレット・ハーディンはPsychology Today誌にひとつの論考を発表した。「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor」。 比喩はこうだ。定員50人の救命ボートに、すでに50人が乗っている。余裕はあと10人分。海には100人が浮かんでいる。10人を選んで乗せるか。全員を乗せようとしてボートごと沈むか。誰も乗せないか。 ハーディンの答えは明快だった。誰も乗せるな。 ボートの定員は物理的制約であり、善意では拡張できない。全員を救おうとすれば全員が死ぬ。この残酷な算術は、道徳とは無関係に成立する。ハーディンにとって、これは冷酷な主張ではなく、現実の記述だった。 少なくとも、彼はそう信じていた。 共有される海、排他されるボート ハーディンにはもうひとつの有名な

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ことばと文学

言葉のなかの見えない距離

「年上だから敬語を使う」。多くの人がそれを当然のルールとして受け入れている。だが、考えてみてほしい。ただ先に生まれたというだけの理由で、なぜ言葉の形式を変えなければならないのか。時間を長く過ごした人が必ず敬意に値するなら、何もせずに過ごした時間にも価値があることになる。 敬語は「尊敬の表現」だと教わる。しかし実際には、敬語はもう少し複雑な機能を担っている。 敬語は距離の調節装置である 日本語の敬語は、大きく5種類に分類される。尊敬語、謙譲語I(謙譲語)、謙譲語II(丁重語)、丁寧語、美化語。2007年の文化審議会答申以降、従来の3分類からこの5分類に整理された。 この分類を見れば分かるとおり、敬語は単に「相手を持ち上げる」ための装置ではない。自分を下げる表現、場を整える表現、言葉を美しく見せる表現が含まれている。つまり敬語の本質は、話し手と聞き手の距離を調整することにある。 ブラウンとレヴィンソンのポライトネス理論(1987)では、人は対面的なやりとりの中で相手の「フェイス(面子)」を脅かさないように振る舞うとされる。敬語はその最も体系化された道具の一つだ。「いらっしゃいま

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倫理と思考実験

寛容が自らの喉を噛み切るとき

寛容な社会は、自分自身を食い殺す仕組みを最初から内蔵している。 1945年、カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』の脚注にひとつの不発弾を埋めた。「無制限の寛容は、寛容の消滅をもたらす」。哲学書の片隅に差し挟まれた短い注釈。それが80年後の今も、誰にも解除できない爆弾として転がっている。むしろ、時代が進むほどに信管は敏感になっている。 あなたは寛容な人間だと思っている。他者の意見を尊重し、異なる価値観を受け入れる。それは美しい態度だ。しかし、その寛容さはいつか、あなた自身を飲み込むために口を開ける。不寛容な者に対して寛容でいられるか。いられるとして、それはまだ寛容か。それとも、ただの降伏か。 ポパーが言ったこと、言わなかったこと 寛容のパラドックスについて語る人は多いが、ポパーの原典を正確に読んでいる人は驚くほど少ない。 ポパーの主張は「不寛容に対して不寛容であれ」という単純なスローガンではなかった。彼が『開かれた社会とその敵』の注釈で述べたのは、もう少し慎重な立場だ。合理的な議論によって対抗できる限りにおいては、不寛容な思想であっても言論で対処すべきである。しかし、合理

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生きること

いいねの海に沈めなかった眼

SNSで「いいね」がたくさん付く写真を見て、何かが引っかかる。美しいのはわかる。技術的にも優れている。でも、好きになれない。この感情を「嫉妬でしょ」の一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も分からないままになる。 「嫌い」の中身は一枚岩ではない SNSで伸びる写真に対する不快感は、少なくとも4つの異なる感情が混在している。 均質化への嫌悪。 タイムラインを流れる写真の多くは、驚くほど似ている。高彩度、シンメトリー、ゴールデンアワーの逆光、同じ観光地の同じ構図。アルゴリズムが「伸びる」写真を選別し、それを見た人が同じような写真を撮り、さらにアルゴリズムが強化する。結果として、個々の写真に罪はなくても、全体として均質な風景が広がる。嫌悪の対象は個別の写真ではなく、この構造そのものである。 演出への違和感。 「映え」のために食べ物を並べ直す。行ったことのない場所で撮ったかのように見せる。被写体が「写真のために」存在している瞬間。そこに感じる不自然さは、「撮るために生きる」と「生きた結果を撮る」の違いに対する感覚的な反応である。 嫉妬。 自分の写真が伸びないのに、似たような写真が数

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