Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

生きること

決断できない状態の構造

どちらにするか決められない、と言ったとき、周囲の人間は「どっちでもいいから早く決めろ」と言う。たぶん、その通りだ。どちらでもいい。だからこそ決められない。 似すぎた選択肢 選択肢が二つある。どちらも同じくらい魅力的で、どちらも同じくらい不安がある。AにはAの利点があり、BにはBの利点がある。Aを選べばBの利点を失い、Bを選べばAの利点を失う。 心理学者バリー・シュワルツは『選択のパラドックス』の中で、選択肢が多すぎると人は決断できなくなり、たとえ決断しても満足度が下がると論じた。だが、選択肢が二つしかなくても決断できないことがある。問題は量ではない。選択肢の間の差が小さすぎることだ。 ふたつの選択肢が似ていれば似ているほど、どちらかを選ぶ理由が見つからなくなる。中世の思考実験に、ビュリダンのロバがある。等距離に置かれた二つの干し草の束の間で、どちらに行くか決められずに餓死するロバ。何でもいいと思えるほどに選択肢が拮抗しているとき、「何でもいい」は「何も選べない」に変わる。 正解があるという呪い 決断を阻むもうひとつの構造は、「正解がある」という思い込みだ。 就職先を選

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

波の上で誰を見捨てるか選ぶ

あなたは今、ボートの上にいる。海にはまだ人がいる。手を伸ばせば届く。でも、伸ばした瞬間にボートが傾いて、あなたも沈む。だから手を引っ込める。そしてその夜、ぐっすり眠る。 これは比喩ではない。あなたの今日そのものだ。 ボートの定員 1974年、生態学者ギャレット・ハーディンはPsychology Today誌にひとつの論考を発表した。「Lifeboat Ethics: The Case Against Helping the Poor」。 比喩はこうだ。定員50人の救命ボートに、すでに50人が乗っている。余裕はあと10人分。海には100人が浮かんでいる。10人を選んで乗せるか。全員を乗せようとしてボートごと沈むか。誰も乗せないか。 ハーディンの答えは明快だった。誰も乗せるな。 ボートの定員は物理的制約であり、善意では拡張できない。全員を救おうとすれば全員が死ぬ。この残酷な算術は、道徳とは無関係に成立する。ハーディンにとって、これは冷酷な主張ではなく、現実の記述だった。 少なくとも、彼はそう信じていた。 共有される海、排他されるボート ハーディンにはもうひとつの有名な

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ことばと文学

言葉のなかの見えない距離

「年上だから敬語を使う」。多くの人がそれを当然のルールとして受け入れている。だが、考えてみてほしい。ただ先に生まれたというだけの理由で、なぜ言葉の形式を変えなければならないのか。時間を長く過ごした人が必ず敬意に値するなら、何もせずに過ごした時間にも価値があることになる。 敬語は「尊敬の表現」だと教わる。しかし実際には、敬語はもう少し複雑な機能を担っている。 敬語は距離の調節装置である 日本語の敬語は、大きく5種類に分類される。尊敬語、謙譲語I(謙譲語)、謙譲語II(丁重語)、丁寧語、美化語。2007年の文化審議会答申以降、従来の3分類からこの5分類に整理された。 この分類を見れば分かるとおり、敬語は単に「相手を持ち上げる」ための装置ではない。自分を下げる表現、場を整える表現、言葉を美しく見せる表現が含まれている。つまり敬語の本質は、話し手と聞き手の距離を調整することにある。 ブラウンとレヴィンソンのポライトネス理論(1987)では、人は対面的なやりとりの中で相手の「フェイス(面子)」を脅かさないように振る舞うとされる。敬語はその最も体系化された道具の一つだ。「いらっしゃいま

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倫理と思考実験

寛容が自らの喉を噛み切るとき

寛容な社会は、自分自身を食い殺す仕組みを最初から内蔵している。 1945年、カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』の脚注にひとつの不発弾を埋めた。「無制限の寛容は、寛容の消滅をもたらす」。哲学書の片隅に差し挟まれた短い注釈。それが80年後の今も、誰にも解除できない爆弾として転がっている。むしろ、時代が進むほどに信管は敏感になっている。 あなたは寛容な人間だと思っている。他者の意見を尊重し、異なる価値観を受け入れる。それは美しい態度だ。しかし、その寛容さはいつか、あなた自身を飲み込むために口を開ける。不寛容な者に対して寛容でいられるか。いられるとして、それはまだ寛容か。それとも、ただの降伏か。 ポパーが言ったこと、言わなかったこと 寛容のパラドックスについて語る人は多いが、ポパーの原典を正確に読んでいる人は驚くほど少ない。 ポパーの主張は「不寛容に対して不寛容であれ」という単純なスローガンではなかった。彼が『開かれた社会とその敵』の注釈で述べたのは、もう少し慎重な立場だ。合理的な議論によって対抗できる限りにおいては、不寛容な思想であっても言論で対処すべきである。しかし、合理

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生きること

いいねの海に沈めなかった眼

SNSで「いいね」がたくさん付く写真を見て、何かが引っかかる。美しいのはわかる。技術的にも優れている。でも、好きになれない。この感情を「嫉妬でしょ」の一言で片付けるのは簡単だが、それでは何も分からないままになる。 「嫌い」の中身は一枚岩ではない SNSで伸びる写真に対する不快感は、少なくとも4つの異なる感情が混在している。 均質化への嫌悪。 タイムラインを流れる写真の多くは、驚くほど似ている。高彩度、シンメトリー、ゴールデンアワーの逆光、同じ観光地の同じ構図。アルゴリズムが「伸びる」写真を選別し、それを見た人が同じような写真を撮り、さらにアルゴリズムが強化する。結果として、個々の写真に罪はなくても、全体として均質な風景が広がる。嫌悪の対象は個別の写真ではなく、この構造そのものである。 演出への違和感。 「映え」のために食べ物を並べ直す。行ったことのない場所で撮ったかのように見せる。被写体が「写真のために」存在している瞬間。そこに感じる不自然さは、「撮るために生きる」と「生きた結果を撮る」の違いに対する感覚的な反応である。 嫉妬。 自分の写真が伸びないのに、似たような写真が数

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倫理と思考実験

そこにいなかった人たち

あなたはそこにいた。間違いなく。GPS がそう言っている。写真のタイムスタンプもそう言っている。SNS の投稿もそう言っている。でも、あなたはそこにいたのだろうか。 スマートフォンを構えた瞬間、あなたはその場所から静かに退場している。物理的にはそこに立っている。でも、意識はもう「今ここ」にはない。フレーミング、露出、アングル、そしてその写真を誰に見せるか。あなたの頭はすでに未来にいる。まだ存在しない聴衆に向かって、まだ起きていないリアクションを想像している。 現在は、あなたの手からすり抜けていく。 観察者は参加者になれない これは別に新しい話ではない。スーザン・ソンタグは1977年の時点で、写真を撮ることの本質をこう見抜いていた。写真とは「捕獲された経験」であり、カメラは「意識の貪欲な気分における理想の武器」だと。撮影するとは、被写体を「自分のもの」にすることであり、それは世界との関係を「知識のようなもの」に、つまり「権力のようなもの」に変換する行為だと。 ソンタグの言葉を借りれば、観光客の経験は「立ち止まり、写真を撮り、

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倫理と思考実験

あなたはどこにも住んでいない

あなたには住所がある。郵便が届く。鍵を回せばドアが開く。布団があり、台所があり、光の入り方に見覚えがある。だがそこは「家」だろうか。あなたはそこに「住んでいる」だろうか。それともただ、寝る場所があるだけだろうか。 「家」という言葉は、思ったよりも重い。そして思ったよりも捨てがたい。 住まうということ ハイデガーは1951年の講演「建てる、住まう、考える」で、「建てる bauen」という言葉の語源を探った。古高ドイツ語の buan は「住まう」を意味する。そしてドイツ語の ich bin(私はある)は、もともと「私は住まう」を意味していた。つまり「存在すること」と「住まうこと」は、言語の最も深い層でつながっている。 ハイデガーにとって、住まうとは単に屋根の下にいることではない。それは大地と空のもとで、死すべき者として世界に居ることだ。

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倫理と思考実験

持っていたつもりだった

あなたのスマートフォンを手に取ってほしい。あなたはそれを買った。代金を払った。箱を開け、フィルムを剥がし、初期設定を済ませた。だからそれはあなたのものだ。そう思っている。だが中に入っている音楽はあなたのものではない。電子書籍もあなたのものではない。アプリはライセンスに基づいて一時的に使用を許可されているだけで、提供者が気を変えれば明日には消える。あなたが「持っている」と感じているものの大半は、あなたのものではない。 そもそも「持つ」とは何か。この問いは思ったより厄介で、思ったより古い。 労働を混ぜる ジョン・ロックは『統治二論』第五章で、所有権の起源を説明しようとした。神は地上のすべてを人類に共有のものとして与えた。ではなぜ、ある土地やある果実が特定の個人のものになるのか。ロックの答えはこうだ。すべての人間は自分自身の身体を所有している。身体の労働、手の働きは、その人固有のものである。だから自然の状態にあるものに自分の労働を混ぜたとき、それは自分のものになる。リンゴを木からもいだ瞬間、そのリンゴはあなたの所有物になる。あなたの労働が加わったからだ。 この論理は一見すっきりして

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倫理と思考実験

配られたカードを見ろ

あなたは自分の人生を「自分で切り拓いた」と思っている。 けれど、少しだけ巻き戻してみてほしい。あなたが最初に下した「決断」は何だったか。母語を選んだか。生まれる国を選んだか。親の年収を、達伝子の配列を、生まれた世紀を、選んだか。 何ひとつ選んでいない。そして、その「何ひとつ選んでいない」が、その後のすべてを規定している。あなたの努力も、成功も、価値観も、この記事を読んでいるという事実も、すべてその初期条件の上に立っている。 この記事は「生まれ」という、誰もが経験し、誰もが選ばなかった出来事について書く。答えは出ない。ただ、引き当てたくじの中身を、もう少し丁寧に見ておきたい。 くじを引く手はなかった ハイデガーが「被投性(Geworfenheit)」と呼んだ構造については、別の記事で書いた。私たちは自分の存在の出発点を選んでいない。それは人間の存在そのものの構造である、と。 ここでは、その被投性の具体的な中身に踏み込みたい。「投げ込まれた」という構造を哲学的に記述することと、投げ込まれた先の中身が人生をどれほど規定するかを見つめることは、似ているようでまったく違う。 被投

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倫理と思考実験

信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

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倫理と思考実験

信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。

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倫理と思考実験

あなたは昨日と同じことをする

今朝、あなたは何をしたか。 目が覚めて、スマホを見て、歯を磨いて、服を着た。どれか一つでも「今日初めてやること」だっただろうか。たぶん、ない。明日も同じことをする。明後日も。そしてそのことに、ほとんど意識を向けない。 私たちは習慣の生き物だ。これは殺し文句ではなく、記述だ。一日の行動の大半は習慣であり、その習慣は意識的な決定を経由しない。問題は、それが何を意味するかだ。習慣とは自由の放棄なのか。それとも、自由の条件なのか。 徳は繰り返しから生まれる アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻で、習慣について最も有名な主張を行った。徳(アレテー)は知識ではなく、習慣(ヘクシス)である。 「私たちがあることをする前に学ばなければならないことは、それをすることによって学ぶ」。建築家は建てることによって建築家になり、竪琴弾きは弾くことによって竪琴弾きになる。同様に、正しい行いを繰り返すことによって正しい人になり、勇敢な行いを繰り返すことによって勇敢な人になる。 ここには、プラトンへの明確な反論がある。プラトンは徳を知識の問題とした。「善」とは何かを知れば、人は善く振る舞う。悪とは

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