Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

生きること

自由意志を手放せない

あなたの意志で読み始めたと思っているこの文章は、138億年前にすでに決まっていたのかもしれない。 問いの形をした罠 「自由意志は存在するのか」。 この問いには不思議な性質がある。考えれば考えるほど、自由意志の存在を否定する方向に議論が傾いていく。物理法則は決定論的に振る舞い、脳は化学反応の連鎖であり、「選択」と呼んでいるものはニューロンの発火パターンにすぎない。論理的に突き詰めれば、自由意志が入り込む余地はどこにもないように見える。 それなのに、大多数の人間はいまだに自由意志を信じている。哲学者ですらそうだ。PhilPapersの大規模調査(2020年)によれば、哲学者の約59%が両立論(コンパティビリズム)を支持している。つまり、決定論が真であっても自由意志は成立しうると考えている。 なぜか。 「証拠があるから」ではない。「論証が強いから」でもない。おそらく、信じたいからだ。 そしてここに、この問いの本当の罠がある。「自由意志は存在するか」という問いは、いつの間にか「なぜ私たちは自由意志を信じたいのか」という、まったく別の問いにすり替わっている。 決定論の冷たい論

By Sakashita Yasunobu

生きること

あなたの贈り物は届かない

誰かに何かを贈ったことがあるだろう。そしてそのたびに、あなたは失敗している。 贈り物という嘘 私たちは贈り物をする。誕生日に、クリスマスに、あるいは何でもない日に。「気持ちだから」と言い添えて差し出す。見返りなんて求めていない、と本気で思っている。 しかし、贈った瞬間に何が起きているかを正直に見つめてみると、事態はそう美しくない。 相手が喜べば、こちらも嬉しい。感謝されれば、満たされる。「いい人だ」と思われることの心地よさ。贈る行為には、差し出す側にとっての報酬がすでに織り込まれている。純粋な善意のつもりでも、その善意そのものが一種の見返りになっている。 そして受け取る側はどうか。「もらったからにはお返ししなければ」という圧力が、意識するしないにかかわらず、静かに発生する。お中元にはお歳暮を。結婚祝いには内祝いを。香典には香典返しを。日本社会はこの構造をきわめて精緻に制度化してきた。 贈り物は、贈られた瞬間に「負債」になる。 モースが見たもの フランスの社会学者マルセル・モースは、1925年に発表した『贈与論(Essai sur le don)』で、贈与の構造を正面

By Sakashita Yasunobu

光と写真

あなたを撮った

街を歩いている。ふと、知らない人がこちらにレンズを向けている。シャッター音が聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。あなたの顔は、いまこの瞬間、誰かのSDカードに記録された。許可は求められていない。 あなたは怒るだろうか。それとも、気づかないまま歩き続けるだろうか。 ストリートスナップと呼ばれる行為がある。公共の場で、見知らぬ人を、断りなく撮る。撮る側はそれを「表現」と呼び、撮られる側はそれを「侵害」と呼ぶことがある。どちらも間違っていない。どちらも正しくない。この記事はその境界線について書くが、線は引けない。引けないということを、もう少しだけ丁寧に絶望してみたい。 シャッターという所有 スーザン・ソンタグは1977年の『写真論(On Photography)』で、写真を撮る行為を「所有」の一形態として記述した。 To photograph is to appropriate the thing photographed. 撮影することは、撮影された対象を占有することだ、と。カメラは記録装置であると同時に、

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生きること

なにかをしよう!(何のために?)

人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。 献血にいこう 献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。 この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。 だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ち

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生きること

私という凡庸

あなたの代わりはいる。それも、かなりたくさん。人間にも機械にも。 これは侮辱ではない。観察だ。深い穴を何十年もかけて掘り続けてきた専門家がいて、あらゆる穴の構造を瞬時に把握できるAIがいて、あなたはシャベルすら持たずにその傍らに立っている。素人として。 ある企業のインターンシップに参加したとき、期待されたのは「哲学を学んでいる人間ならではの視点」だった。だが哲学を学んでいるからといって、人を唸らせるような洞察が自動的に湧いてくるわけではない。当然だ。哲学は知識の自動販売機ではないし、「ならではの視点」はボタンを押して出てくるものではない。 深さも広さも足りないとき、残っているのは何だろう。たぶん、何も残っていない。だがその「何もなさ」のほうに、少しだけ面白い問いがある。 以下は、そのあたりのことを真夜中に考えていたら、いつのまにか遠くまで漂流してしまった思索の記録だ。答えは用意していない。答えがないことが答えだ、とすら言うつもりはない。ただ、考えてしまった。深夜の、誰にも頼まれていない時間に。 代替可能 すべては交換可能である 産業革命は肉体を機械に置き換えた。AIは認

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生きること

あなたの憧れは、誰ですか。

あなたは何者にもなれる、と誰かが言った。嘘だ。 サルトルは『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』(1946)でこう述べた。「人間はまず先に実存し、世界の中で出会い、その後に自分自身を定義する」。生まれつきの本質もなければ、設計図もない。まず存在してしまう。それから何であるかを作る。 「実存は本質に先立つ(l'existence précède l'essence)」。この定式は解放の宣言に聞こえる。しかし少し考えればわかる。何者にもなれるということは、まだ何者でもないということだ。何かを選ぶたびに、選ばなかった可能性が静かに消えていく。選ぶたびに自分は狭くなる。自由に作れるはずの自分が、選択のたびに固まっていく。 ハイデガーは「被投性(Geworfenheit)」という概念でこの状況を別の角度から照らした。私たちは自分で自分の存在を始めたわけではない。気がついたら、すでにここにいた。生まれる場所も時代も身体も選んでいない。われわれは「投げ込まれた」。その地点から、そのままの条件で、何者かになろうとするしかない。

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生きること

退屈な今を生きる

明日のための今日 「今を生きろ」と誰かが言う。SNSにも自己啓発の本にも、同じ言葉がいたるところに転がっている。今日を大切にしろ。先延ばしにするな。一度きりの人生だろう。 ただ、よく聞いてみると、その理由はいつも明日に接続されている。今日の行動が未来を作る。後悔しないために今を無駄にするな。チャレンジすれば奇跡が起きる。つまり「今を生きろ」の看板の裏には「そのほうが結局うまくいくから」という計算がぴったり貼りついている。それは今を生きているのではなく、今を明日の原料として消費しているだけだ。 ホラティウスの "carpe diem" はもともと「今日という日を摘め」という意味だが、続く句 "quam minimum credula postero" は「明日をできるだけ信じるな」であって、「明日のために今日がんばれ」ではない。明日を計算に入れること自体を退けている。現代の自己啓発が借用する "carpe diem" は、原典とほぼ逆の意味で流通している。 マルクス・

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生きること

気の利かない問いたち

あなたがこの文章を読み終えるまでに、何ひとつ解決しない。約束する。 ここには答えがない。処方箋もない。読んだ後に世界の見え方が変わるような、気の利いた結論もない。ここにあるのは、2500年以上にわたって誰も解けなかった問いを並べて、その解けなさを眺める、ただそれだけの行為だ。 哲学には長い歴史がある。その長い歴史のなかで解決された問いは、驚くほど少ない。解決したように見えるものも、たいてい、問いの形を変えただけだ。それでも人は問い続ける。深夜2時、天井を見つめながら。シャワーの中で。カフェの窓際で、冷めたコーヒーを前にして。答えが出ないと知りながら。 以下は、そういう問いの集まりだ。考えても仕方のないことばかり。でも、一度考え始めたら、もう戻れなくなるかもしれない。 あなたはもう死んでいる あなたはすでに何度か死んでいる。ただ、誰もそれに気づかなかっただけだ。 5歳のあなたを思い出してほしい。あの子供と今のあなたは、いったい何を共有しているのだろう。記憶はほとんど残っていない。性格も違う。身体を構成する細胞は約7年から10年でほぼすべて入れ替わるから、物質的にもほとんど重

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生きること

全員が正しい

真実がどこにあるのかなんて、もう誰も本気で問わないのかもしれない。 でも、少しだけ考えてみたい。ほんの少しだけ。 直感的に、ひとつの予感がある。真実はすでにそこにある、と。特別な場所に隠されているのではなく、選ばれた人間だけが握っているのでもなく、ただ、誰にでも手が届くところにある。飲み屋の罵声のなかにさえ、鋭い真実が混ざっているかもしれない。論文よりも、路上の声のほうが、ときに正確に何かを射抜くことがある。だからこそ、すべてに耳を傾けるのだ、と。 プラトンの対話篇『テアイテトス』(148e-151d)で、ソクラテスは自分の哲学的方法を「産婆術」にたとえた。ギリシア語で「マイエウティケー」。彼の母パイナレテは助産師だった。助産師は自分では子を産まない。ソクラテスもまた、自分では知を生まない。彼がしたのは、問いを重ねることで、相手のなかにすでにある考えを引き出すことだった。 ソクラテスは『弁明』(21d)のなかで、デルポイの神託が自分を「最も賢い人間」だと告げたことに困惑し、政治家、詩人、職人を訪ね歩いた、と語っている。わかったのは、

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生きること

草原で寝転びたい

草原に寝転びたいと思ったことがある人は、たぶん、その草原に行ったことがない。 あるいは行ったことがあるかもしれない。でもそこで実際に寝転んだとき、虫が這い上がってきて、地面は思っていたより固くて、日差しが強すぎて、十分もしないうちに起き上がったはずだ。それでも「また行きたい」と思う。正確に言えば、あの場所ではなく、一度も存在したことのない「あの場所」に。 なぜ草原なのか。なぜ海ではないのか。海は動いていて、音があって、塩の匂いがして、何より溺れる。草原は静かで、ほとんど動かない。もしかすると求めているのは草原ではなく、「静けさ」そのものなのかもしれない。だとすれば、この文章は静けさをめぐる長い寄り道のようなものだ。目的地は、たぶんない。 草の悲鳴 草原に寝転んだとき、あの匂いが好きだという人は多い。青くて透明な、あの匂い。正体を聞いても、好きなままだろうか。 あの匂いの正体は、植物が組織を傷つけられたときに放出する揮発性有機化合物だ。Green Leaf Volatiles(GLVs)と呼ばれる炭素6個と酸素を含む化合物群で、主に (Z)-3-ヘキセナールが含まれる。

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生きること

嘘に泣く

フィクションに泣くのは、考えてみれば、おかしなことだ。 あなたが涙を流しているその物語は、あなたのために書かれたものではない。あなたの人生を知らない誰かが、あなたとは無関係な架空の人物について、おそらくは締め切りに追われながら書いた。そしてたいていの場合、それは売り物として世に出ている。棚に並び、値札がつき、レビューがつき、星の数で格付けされる。 なのにあなたは泣いている。 歌詞にしてもそうだ。あなたの悩みを歌っているわけでもない。あなたの名前も、あなたの人生も、あなたの失恋も、作詞家は知らない。それでもあなたの胸に刺さる。どうしてだろう。いや、もっと根本的な疑問がある。どうしてそれが「刺さる」などという暴力的な比喩で語られるのだろう。あなたは自分から刺されに行っているのに。 存在しないものに泣いている 哲学にはこの問題を正面から扱った議論がある。「フィクションのパラドクス(paradox of fiction)」と呼ばれる。 1975年、哲学者コリン・ラドフォードは「アンナ・カレーニナの運命になぜ心を動かされるのか(How Can We Be Moved by the

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生きること

不安に怯えて

もう決まっている 試験の結果を待っている夜のことを考える。 合否はもう決まっている。封筒はすでに印刷され、おそらくどこかの郵便局の棚の上に置かれている。自分が何をしようと、祈ろうと、深夜2時に受信ボックスをリロードしようと、中身は1ミリも変わらない。 それなのに、落ち着かない。 不思議なのは、この不安の正体だ。「不合格かもしれない」という恐れとは少し違う。結果がまだ自分のものになっていないという、あの宙ぶらりんの状態そのものが耐えられない。情報は世界のどこかに存在している。ただ、手が届かないだけ。その距離が、異常に重い。 キェルケゴールは『不安の概念』(Begrebet Angest, 1844年)のなかで、不安とは特定の対象に対する恐怖ではなく、可能性そのものに対する反応だと考えた。「不安とは自由の可能性である」。何が起こるかわからないという状態、あるいは何が起こりうるかがすべて同時に見えてしまうという状態。結果を待つ夜に感じるあの重さは、可能性の重量なのかもしれない。 ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、不安(Angst)と恐れ(Furcht)を明確に区別した。

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