Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

放棄された問いたち

深夜に、あるいは退屈な午後に、不意にやってくる問いがある。答えを探しているわけではない。答えがあるとも思っていない。ただ問いだけが浮かんで、しばらく漂って、やがて沈む。翌朝にはもう思い出せない。思い出せたとしても、昨夜あれほど切実だったはずの問いが、朝の光の中ではひどく間の抜けたものに見える。 それでも問いは繰り返しやってくる。懲りもせず。 このテキストは、そういう問いの残骸を集めたものだ。体系も結論もない。哲学のふりをしているが、哲学になりきれていない。あるいは、哲学とはもともとそういう半端なものだったのかもしれない。ソクラテスは一冊の本も書かなかった。プラトンがそれを書き留めた。書き留められた時点で、それはもうソクラテスの問いではなくなっていた。 独り言としての対話 会話は根本的に独り言かもしれない。 そう言うと大げさに聞こえるが、実感としてはそれほど突飛でもない。誰かと話しているとき、私たちは本当に相手の言葉を聞いているだろうか。相手が口にした音を耳で拾い、自分の語彙と経験のフィルターに通して、自分の内側で「相手の言いたいこと」を組み立てている。聞いているのは相手の言

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

「もし1日が2時間長かった何をする?」

Redditで誰かが聞いた。「もし1日が2時間長かったら何をする?」 If your day was 2 hours longer what would you do? by u/ImaginaryPhone2946 in selfimprovement たぶん、何もしない。 いや、何かはするだろう。本を読む、散歩する、眠る。でもそれは後回しにしてきたことのリストであって、2時間を手に入れたところで、また別の2時間が足りなくなるだけだ。不足の感覚は、時間の量とは関係がない。 この問いを引き延ばしてみる。4時間なら。12時間なら。24時間なら。一日が永遠に続くなら。際限なく広げていくと、やがて量の問題が存在の問題に変わる。 以下は、答えの出ない問いについての覚え書きだ。哲学はこれらの問いに数千年取り組んできた。一つも解決していない。この記事も、何ひとつ解決しない。 2時間では何も変わらない 2時間増えたら何をするか。おそらくどの回答も似たようなものになる。読書、運動、趣味の時間。つまり「

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光と写真

初めてのレンズに迷ったら

単焦点レンズを買おうと思ったとき、多くの人がまず迷うのが「35mm、50mm、85mmのどれを選ぶか」だ。結論から言えば、普段自分がどの画角で世界を切り取りたいかがわかれば、答えは自然と見えてくる。 スマートフォンで画角を体感する 自分に合う焦点距離を知る手軽な方法がある。スマートフォンのカメラでズーム倍率を変えながら撮ってみることだ。 たとえばiPhoneの場合、メインカメラは35mmフルサイズ換算で24mmから26mm相当の画角を持つ(機種によって異なる)。2倍ズームにすると約48mmから52mm相当になり、50mmの単焦点レンズに近い画角が得られる。Proモデルでは、48MPセンサーからのクロップにより28mmや35mmといった焦点距離のプリセットも利用できる。 ふだんスナップを撮るとき、どの倍率がしっくりくるかを意識してみよう。よく使う倍率がわかれば、それを35mmフルサイズ換算の焦点距離に読み替えるだけで、最初の一本の候補が絞り込める。 焦点距離と画角 焦点距離はレンズの光学的特性を表す値で、ミリメートル(mm)単位で示される。この値が小さいほど広い範囲が写り

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倫理と思考実験

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

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倫理と思考実験

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

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倫理と思考実験

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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倫理と思考実験

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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倫理と思考実験

赦せないまま死ぬ

「許してあげなよ」と、誰かが軽々しく言う。まるで赦しが道徳的な義務であるかのように。まるでそれが簡単で、正しくて、誰にでもできることであるかのように。 でも、許せないものは許せない。それだけのことなのに、なぜかこの社会では、許せない側が責められる。許さない人間は心が狭い。許さない人間は前に進めていない。許さない人間は、どこか壊れている。 本当にそうだろうか。 そもそも、赦しとは何か。この問いに、哲学は驚くほど不穏な答えを用意している。いや、正確に言えば、答えなど用意していない。ただ、問いの底が抜けているということを、丁寧に証明してみせただけだ。 許すべきだという呪い 私たちは「許すこと」を美徳だと教えられて育つ。宗教は赦しを説き、道徳は寛容を称え、自己啓発本は「手放すこと」を勧める。許すことは成長であり、許さないことは停滞だと。 だが、この「許すべきだ」という圧力そのものが、ひとつの暴力ではないか。 傷ついた人間に向かって「許しなさい」と言うとき、それは傷の深さを無視している。許すかどうかは、傷ついた当人だけが決められることのはずだ。それなのに、

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生きること

お金がなくなっても何も解決しない

「もしお金がなかったら、何をして生きる?」 飲み会で誰かがこの問いを放り投げると、場はにわかに活気づく。旅をする、絵を描く、田舎に引っ込む、カフェを開く。返ってくる答えはいつも美しくて、いつも少し嘘くさい。まるでお金だけが、僕たちと「本当の自分」のあいだに立ちはだかる唯一の壁であるかのように。 しかし、もう少し意地悪に考えてみたい。本当にお金が消えたら、あなたはその美しい答えどおりに生きるだろうか。 たぶん、生きない。 欲望は通貨を選ばない お金を「概念ごと」消すという思考実験は、見た目ほど簡単ではない。 お金そのものは、交換を効率化するための道具にすぎない。それが消えたところで、人が何かを欲しがるという事実は変わらない。通貨がなくなれば、別の何かが通貨の役割を担う。時間、信用、労力、あるいはもっと原始的な力関係。歴史を遡れば、貨幣が登場する以前から人間は交換し、蓄積し、奪い合ってきた。 だから「お金がなかったら」という仮定は、少し的を外している。問いの核はもっと奥にある。 いかなる制約もなかったとしたら、あなたは何をしますか。 これに即答できる人を、僕はあまり信用

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倫理と思考実験

現実を生きる感覚

今朝、目を覚ました。足が床に触れた。冷たかった。コーヒーを淹れた。湯気が立った。ここまで、何ひとつ疑わなかった。 それは正しい態度だ。疑う理由がないからではない。疑ったところで、何も変わらないからだ。 覚めたつもりの夢 夢の中で「これは現実だ」と確信していたことがあるだろう。 あの確信は、今のこの確信と、何が違うのか。構造的には何も違わない。夢の中にいるとき、あなたはそれが夢だと知らない。知らないまま、完璧に現実だと思っている。起きてから「あれは夢だった」とわかる。つまり、「現実である」という判断が正しかったかどうかは、常に事後的にしか確認できない。 今この瞬間が夢ではないという保証は、今この瞬間の中にはない。 「でも、夢にはどこか違和感がある」と思うかもしれない。色が曖昧だったり、場面が唐突に切り替わったり。しかし、その「違和感」に気づいたのは起きてからだ。夢の中では、どれほど奇妙な展開も完全に自然に受け入れていた。空を飛んでいても、死んだ人と話していても、何も疑わなかった。 現実が現実であるという感覚は、それ自体では何の証拠にもならない。夢がまさにそれを証明している

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倫理と思考実験

世界にあなたひとり、ぽつんと。

ある日、目が覚めたら、世界から自分以外の人間がすべて消えていた。 よくある思考実験だ。飲み会の余興にもなる。「好きなことをする」、「世界中を旅する」、「何もしない」。大抵はそんな答えが返ってくる。楽しそうだ。少なくとも最初の数日は。 でも考えてみてほしい。その「好きなこと」の大半は、他者がいてこそ成り立っていたのではないか。旅先の話を聞いてくれる誰か。おいしいものを一緒に食べる誰か。仕事を辞められる開放感だって、仕事という拘束があってこそ感じられる。他者が消えた瞬間、あなたの欲望のほとんどは行き場を失う。 この問いの核心は「何をするか」ではない。「あなたは、自分の生活のうち、どれだけを他者の存在に依存していたか」だ。 「好きなことをする」という幻想 最初の1週間はおそらく楽しい。誰の目も気にしなくていい。どこにでも入れる。何でも手に入る。でも2週目あたりから、奇妙な空虚がしのび寄ってくるはずだ。 やりたいことリストを全部消化した後に、何が残るだろう。 ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)の中で、人間の根本的な条件のひとつとして「複数性(plurality)」

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倫理と思考実験

何も確かではない

あなたは今、何かを「知っている」と思っている。そして昨日のことを「覚えている」と思っている。 残念だが、どちらもおそらく嘘だ。 知識と呼んでいるものの定義は、六十年以上前に壊れたまま誰にも修復されていない。記憶と呼んでいるものは、脳が毎回つくり直す即興のフィクションだ。あなたが「自分」だと思っているものは、その壊れた知識と捏造された記憶の上に建てられた、土台のない建物だ。 この先に救いはない。安心できる結論もない。あるのは、あなたがすでに薄々気づいていたかもしれない、いくつかの不愉快な事実だけだ。 再生という幻想 記憶は録画ではない。 1932年、イギリスの心理学者フレデリック・バートレットは著書 Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology のなかで、記憶が過去の忠実な「再生(reproduction)」ではなく「再構成(reconstruction)」であることを実験的に示した。北米先住民の民話を被験者に読ませ、時間を置いてから語り直させたところ、被験者たちは物語を自分の文化的枠組みに合わせて変形

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