終わらない今日

もし、明日が来なかったとしたら。

目覚まし時計が鳴る。昨日と同じ時間に。窓の外は昨日と同じ天気で、テレビからは昨日と同じニュースが流れている。何をしても、何を選んでも、翌朝にはすべてが巻き戻る。あなただけが覚えている。あなた以外の世界は、何ひとつ変わらない。

こういう想像をしたことがある人は、たぶん少なくないと思う。

映画『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day, 1993年)は、まさにこの状況を描いた作品だった。気象予報士のフィル・コナーズが、ペンシルベニア州パンクスタウニーで2月2日を何度も何度も繰り返す。最初はふざけて楽しみ、次に自暴自棄になり、やがて静かに変わっていく。誰にも覚えられない一日の中で、ピアノを練習し、人の名前を覚え、通りすがりの老人の世話を焼くようになる。

あの映画を観て、多くの人がたぶんこう思ったはずだ。「自分ならどうするだろう?」と。

もっと古い問い

ただ、この思考実験には、映画よりずっと古いルーツがある。

ニーチェは1882年の『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft)第341節「最大の重し」で、こんな場面を描いている。ある夜、悪魔があなたの最も深い孤独のなかに忍び込んできて、こう囁く。

おまえが今まで生きてきたこの人生を、おまえはもう一度、そしてさらに無数に繰り返して生きなければならない。そこには何ひとつ新しいことはなく、あらゆる苦痛も、あらゆる喜びも、あらゆる思考も溜息も、おまえの人生のすべての言いようもなく小さなこと、大きなことが、同じ順序と連なりのなかでおまえのもとに戻ってくる。

映画との違いは決定的だ。フィル・コナーズには記憶があった。前のループの経験を踏まえて行動を変えられた。だからこそ、あの映画は「成長の物語」として成立している。

でも、ニーチェの永劫回帰にはそれがない。まったく同じ人生が、まったく同じように、何の変更もなく永遠に繰り返される。記憶も、改善の余地も、どこにもない。あるのはただ、同じ蜘蛛と、同じ木漏れ日と、同じこの瞬間だけだ。

ニーチェはこれを、人生を肯定できるかどうかの試金石として描いた。この知らせを聞いたとき、あなたは歯を食いしばって悪魔を呪うだろうか。それとも、「これほど神聖な言葉を聞いたことがない」と言えるだろうか、と。

ニーチェの問いは壮大で、どこか神話的ですらある。でも今日考えたいのは、その壮大さのほうではなくて、もう少し手前にある、もっと素朴な疑問のほうだ。

結果が消える世界で

繰り返す一日では、今日の行動に結果がない。何を壊しても明日には元に戻る。何を築いても朝にはなくなる。誰かを傷つけても、相手は翌朝には忘れている。

プラトンは『国家』第2巻(359a-360d)の中で、グラウコンにこんな話をさせている。リュディアの羊飼いギュゲスが、身につけると透明になれる指輪を偶然手にする。ギュゲスはその力を使って王妃を誘惑し、王を殺し、国を奪った。グラウコンの主張はこうだ。人が正しく振る舞うのは、ただ罰を恐れているからにすぎない。もし罰の心配がなくなったなら、正しい者も不正な者も、結局は同じように振る舞うだろう、と。

繰り返す一日は、見えない指輪を渡されたようなものかもしれない。何をしても結果がない。罰がない。記録が残らない。

そのとき、人は何をするのだろう。

映画は一つの筋書きを提案した。享楽、絶望、そして利他。フィルは最終的に、忘れられると知りながら他人を助けることを選ぶ。この流れは美しいし、物語としての説得力がある。

でも、それが普遍的かどうかは、わからない。

飽きの先にあるもの

1000回目のループで、人は本当に利他的になるだろうか。10000回目でもそうだろうか。

飽きの先に待っているのは善意なのか。それとも、善意にすら飽きた先にある何か別のものなのか。諦めなのか。悟りなのか。あるいは、その二つに違いはないのか。

繰り返しの中で技術は身につく。ピアノが弾ける。言葉がうまくなる。人の心を読めるようになる。でも、それを知っているのは自分だけだ。誰にも認められない。発表会もないし、褒めてくれる先生もいない。聴衆はいつも、初めて聴いたような顔をしている。

誰にも認められない成長に、意味はあるのだろうか

問いが広がっていく

これは繰り返す一日だけの話じゃない気がする。

普段の生活でも、私たちは成長を「誰かに認められること」で確認しがちだ。テストの点数、仕事の評価、「変わったね」という言葉。もしそれが一切なかったら、自分が成長したことを、自分はどうやって知ればいいのだろう。

あるいは、もっと根の深い問いとして。成長とは、そもそも何に向かっているのか。

より良い自分? では、その「より良い」を定義しているのは誰なのか。

さらに問いを広げてみる。

繰り返す一日の中で、あなたは本を読むだろうか。感想を誰にも話せないと知っていて。絵を描くだろうか。翌朝には消えると知っていて。走るだろうか。記録が残らないと知っていて。

もし「それでもやる」と思えるなら、それは何のためにやっているのだろう。楽しいから? では、その楽しさが100回、1000回、10000回と繰り返されたとき、楽しさは残るのだろうか。楽しさは新しさに依存しているのか。それとも、行為そのものに宿るものなのか。

そしてもし「やらない」と思うなら。それは、普段やっている理由が、実は自分のためではなかったということを意味するのだろうか。

時間が止まると見えてくるもの

繰り返す一日という思考実験は、想像の中で時間を止めてみせる。すると、普段は気づかないものが浮かび上がってくる。

私たちがいかに「明日」を前提にして今日を生きているか。行為の価値をいかに結果で計っているか。自分が自分であるということを、いかに他者の反応に頼って確かめているか。

時間が進まない世界では、「意味」という言葉そのものが揺らぎ始める。意味というのは、たいてい、何かが何かに繋がっていることを指している。今日の努力が明日の結果に繋がる。この選択があの未来に繋がる。でも、繋がる先がどこにもないとき、意味はどこにあるのだろう。

もしかすると、問い自体がずれているのかもしれない。「意味があるかないか」ではなくて、「意味がないと感じることに耐えられるかどうか」が、本当の問いなのかもしれない。

あるいは、もっと手前に。「意味を必要とすること」そのものが、問い直されるべきものなのかもしれない。

繰り返す一日の外で

こうなると、もう繰り返す一日の話ではなくなっている。

これは、今ここで、一度きりの時間を生きている私たちの話だ。明日は来る。結果は残る。人は覚えている。でも、それでも同じ問いは消えない

あなたがしていることは、結果がなくてもやりたいことですか。

誰にも見られなくても、あなたはそれをやりますか。

あなたの成長は、誰のためのものですか。

繰り返す一日に答えはない。この問いにも、たぶん、答えはない。でも、考えてみる価値はあると思う。少なくとも、今日くらいは。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu