あぁ、さようなら

最後に誰かと会ったとき、「もう二度と会えない」と思っただろうか。

思わなかったはずだ。最後はいつもそうだ。「じゃあまた」が最後の言葉になることを、事前に知ることはできない。そしてある朝、「また」が永遠に来ないことを知る。それはニュースのように不意に届くこともあれば、長い沈黙のあとに、静かに気づくこともある。

この文章には答えがない。もしあなたが今、誰かを失って苦しんでいるなら、ここに処方箋はない。あなたの悲しみをやわらげる言葉を、僕は持っていない。持っていたら自分に使っている。ただ、同じように途方に暮れた人間の、まとまらない思考の断片がここにあるだけだ。

最後はいつも静かに過ぎる

「最後に会ったとき、これが最後だとは思わなかった」

おそらく、人類史上もっとも多くの人が、もっとも多くの言語で、もっとも多くの夜に呟いてきた言葉だ。そしてそのたびに、誰もが同じことに気づく。別れは、別れの瞬間には姿を見せない。

考えてみれば当然だ。もし「これが最後だ」と分かっていたら、僕たちはきっと別の言葉を選ぶ。もっと丁寧に、もっと慎重に、もっと正直に。しかしそれは「最後だと知っている別れ」であって、「本当の最後」ではない。本当の最後は、日常の皮を被ってやってくる。何食わぬ顔をした火曜日の午後に、何でもない会話の末尾に。

つまり、選択肢は二つだ。すべての瞬間を「最後かもしれない」と思って生きるか、「最後だった」と知ってから後悔するか。前者は実行不可能で、後者は避けようがない。どちらに転んでも救いはない。

悲しみは仕事じゃない

フロイトは1917年の論文「喪とメランコリー(Trauer und Melancholie)」で、喪失への向き合い方を「喪の仕事(Trauerarbeit)」と名づけた。健全な喪においては世界が空虚になり、病的なメランコリーにおいては自我そのものが空虚になる。喪の仕事とは、失った対象への愛着を意識的に、少しずつ手放していく過程のことだ。

「仕事」。この比喩に、どうしても引っかかる。仕事には納期がある。完了がある。進捗の報告がある。だが、悲しみに完了報告を出せる日は本当に来るのだろうか。来るとして、それは何をもって「完了」なのだろうか。

キューブラー=ロスの「五段階モデル」はさらに話をややこしくする。否認、怒り、取引、抑うつ、受容。このあまりにも有名なリストは、1969年の著書『死ぬ瞬間(On Death and Dying)』に由来する。しかし、ほとんど知られていない事実がある。この五段階はもともと、終末期の患者自身が死を受け入れていく心理過程として提唱されたものであって、遺された側の悲嘆のモデルではなかった。それがいつの間にか「悲しむ人のための道順」として広まったが、遺族の悲嘆に対する実証的な裏づけは乏しいと、多くの研究者が指摘している。

僕たちは、自分たちのために描かれたのではない地図を握りしめて、見知らぬ暗闇のなかを歩いている。迷子になるのは、むしろ当然だ。

受容なんて誰もしていない

五段階の最後には「受容」が置かれている。あたかも悲しみのトンネルの出口に、穏やかな光が差しているかのように。

だが「受容」とは、実際のところ何だろう。「もう大丈夫」と心から思えることだろうか。それとも、泣く体力がなくなっただけだろうか。悲しみに慣れることと、悲しみを受け入れることはまったく違う。僕たちが「乗り越えた」と呼んでいるものの正体は、単なる麻痺かもしれない。朝が来て、仕事に行って、ごはんを食べて、眠る。その繰り返しが連れてくるのは、治癒ではなく忘却だ。

「時間が解決する」と人は言う。だが時間は何も解決しない。苦しみは何も教えないし、時間はただ、問題と自分のあいだに距離を挟むだけだ。遠くなったものは小さく見える。それを「解決」と呼ぶなら、目を背けることもまた解決だ。

終わった関係はどこへ行くのか

人が死ぬ。あるいは、関係が終わる。残されるのは記憶だけだ。

デリダは友人を失うたびに追悼の文章を書き、それらは後にひとつの書物にまとめられた。そのなかで彼はこう記している。友人が死ぬたびに、「そのつど唯一的に、かけがえなく、世界が終わる」と。「世界」そのものが終わるのではない。その人との間にだけ存在していた、ひとつの固有の世界が終わるのだ。しかもデリダによれば、喪は友人が実際に死んでから始まるのではない。友情が始まったその瞬間から、すでに喪は始まっている。なぜなら、二人のうちどちらかが先にいなくなることは、友情の構造そのものに最初から書き込まれているからだ。

ここで問いが浮かぶ。終わった世界に、忘れられるとしても、まだ意味はあるのか。

10年ともに過ごした人と疎遠になったとき、その10年は無に帰すのか。死んだ人との思い出は、相手がいなくなった瞬間に、片方の署名しかない契約書のように無効になるのか。

あるいは逆に、終わったからこそ意味が凍結保存されるのかもしれない。変化しないという点において、終わった関係は完璧だ。もう傷つけ合うこともなければ、期待を裏切ることもない。ただ、それは「意味がある」のではなく、「意味が変化しなくなった」だけだ。凍りついた湖を美しいと呼ぶかどうかは、見る人しだいだ。そして見る人すらいなくなったとき、一体なにがのこるんだっていうんだ

忘れることも覚えていることも呪いだ

仏教は無常を説く。パーリ語でアニッチャ(anicca)、日本語で無常。すべての条件づけられた存在は移り変わり、例外はない。これは仏教における三つの存在の特質のひとつであり、残りの二つは苦(dukkha)と無我(anattā)だ。苦しみの根本原因は、移り変わるものにしがみつくことにある。

理屈としては、これほど明快な世界観もないだろう。手放せ。執着するな。すべては流れる。

だが、この明快さが、深夜3時の涙を止めてくれたことは一度もない。

覚えていることは優しさだろうか。故人を忘れないこと。一緒に過ごした時間を記憶に留めること。それは愛の証のように聞こえる。しかし覚えているということは、喪失を日々すこしずつ追体験するということでもある。思い出は慰めであると同時に、治りかけた傷をそっと開く指でもある。

では忘れればいいのか。忘れることは裏切りに感じる。あの人のことを思い出さなくなった自分を、僕たちは許せない。だから覚えている。覚えていて、苦しむ。

覚えていても苦しい。忘れても苦しい。ここに出口はない。愛さなければ傷つかない。だが、そんなことは誰にもできない。あるのは、苦しみの種類を選ぶ自由だけだ。それを自由と呼んでいいのかさえ、怪しい。

世界はあなたの喪失に興味がない

誰かが死んだ翌日も、電車は定刻に来る。コンビニは開いているし、天気予報は明日の降水確率を伝えている。

世界は、誰の死でも止まらない。

これは冷酷な事実であると同時に、ある種の狂気でもある。自分にとっては地面が崩れ落ちたのに、世界そのものは何事もなかったかのように回り続ける。あの人がいなくなったのに、街は昨日とまったく同じ顔をしている。この落差に、怒りとも悲しみともつかないものがこみ上げる。

しかし、もう一歩だけ引いて考えると、もっと恐ろしいことに気づく。僕たちもまた、誰かの喪失に対して「世界を止めなかった側」だということだ。今この瞬間も、どこかで誰かの世界が終わっている。僕たちはそれを知らない。知ったところで、明日も電車に乗る。

喪失は徹底的に孤独な出来事だ。そしてその孤独は治らない。「わかるよ」と誰かが言ってくれたとしても、それは善意の嘘だ。同じ喪失は二つとない。あなたの悲しみはあなただけのものだ。それは救いようのない孤独だけれど、もしかすると、この世であなたが本当に「自分のもの」と呼べる数少ないもののひとつかもしれない。

何も解決しない

ここまで読んで、あなたは何かを得ただろうか。たぶん、得ていない。得られるものなど、最初からなかった。

この文章は何ひとつ解決しなかったし、これからも何も解決しない。フロイトを読んでも悲しみは軽くならないし、デリダを引用しても死んだ人は返事をしない。五段階を暗記しても、不意打ちのように押し寄せる記憶の波から身を守る術にはならない。

だから最後に、問いだけをここに置いていく。答える必要はない。答えなくていい。答えられるはずがないのだから。

もし今、5分だけ亡くなった人と話せるとしたら、何を言うだろう。いくら考えても、それは結局届かない一言にしかならない。そしてその言葉を、なぜ今、隣にいる人には言えないのだろう。失ってからでなければ大切さに気づけないという、この度しがたい構造は、設計ミスなのか、それとも仕様なのか。

もし全てが無常なら、この悲しみもいつか消える。だがそれは希望だろうか。悲しみが消えるということは、あの人がこの世界に残した最後の痕跡がまたひとつ薄れるということだ。悲しみを手放すことは、あの人を手放すことと同じではないのか。

それとも、もっと根本的な話をしよう。どうせ死ぬと知りながら、なぜ僕たちは失うとわかっているものを愛するのだろう。壊れるとわかっている器に水を注ぐのだろう。無常の世界で誰かを大切に思うこと自体が、最初から破綻した企てなのではないか。

そうかもしれない。たぶん、そうだ。

それでも僕たちは誰かを好きになるし、いなくなれば泣く。理由はない。理屈もない。壊れるとわかっている器に水を注ぎ続ける、ただの愚かさだ。

そしてどうせ、全部消える。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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