良い人生なんてない

「良い人生とは何か」と問うとき、ほとんどの人はすでに間違えている。

「良い」という形容詞を使った瞬間、何かしらの尺度を前提にしている。幸福か。意味か。道徳か。生産性か。どれを選んでも、選ばなかった残りが影のように後をついてくる。しかも、問うている本人は今まさに生きている最中だ。完成していない小説を批評するようなもので、原理的に公正な評価はできない。

それでも人は問い続ける。だから、ここでもその問いに付き合ってみたい。ただし、答えは用意しない。

幸福は最近できた

現代の「幸福」は、意外と歴史が浅い。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「エウダイモニア(εὐδαιμονία)」について長大な考察を展開した。この言葉はしばしば「幸福」と訳されるが、今の私たちが使う「幸福」とはかなり違う。アリストテレスにとって、エウダイモニアとは徳に基づいた魂の活動のことだ。「気分がいい」とか「欲しいものが手に入った」という状態ではなく、人間としての機能を卓越した仕方で発揮し続けるという、動的な営みを指していた。

「幸せになる」のではなく、「よく生きる」。状態ではなく、活動。名詞ではなく、動詞。

ところが現代の「幸福(happiness)」は、ほとんどの場合、主観的な心理状態を指す。ポジティブな感情。生活への満足。快適さ。アリストテレスが聞いたら、それは「快楽(ヘドネー, ἡδονή)」の話であってエウダイモニアとは別物だと言うだろう。

2400年のあいだに、問いの答えはより浅く、より手軽なものにすり替わった。私たちが「幸福」と呼んでいるものは、アリストテレスの問いかけとは似て非なる、わりと最近の発明品なのかもしれない。そしてこの発明品は、追いかけるほどに手からすり抜けていくように設計されている。

地獄のほうが意味に近い

ヴィクトール・フランクルはアウシュヴィッツを生き延びた精神科医だ。収容所での体験を記した『夜と霧』のなかで、彼は問いかける。人間からすべてを奪ったとき、最後に残るものは何か。

フランクルの答えは「意味」だった。極限状態では、快楽など存在しない。幸福を感じることは不可能に近い。しかし、自分の苦しみに意味を見出すことはできる。未来に対する目的を持つことは可能だ。彼はのちに「ロゴセラピー」を構築し、人間の根源的な動機は快楽への意志(フロイト)でも権力への意志(アドラー)でもなく、「意味への意志(Wille zum Sinn)」だと主張した。

これは美しい話だ。けれど、苦しみが本当に何かを教えるのかは、また別の問題だ。同時に不穏な問いも内包している。苦しみのなかでこそ意味が際立つのだとしたら、快適で平穏な人生はどうなるのか。意味が薄いのか。

子育てに関する心理学の知見も、似たような居心地の悪さを残す。日々の瞬間的な幸福度で測ると、子どもを持つ人は持たない人より低い傾向がある。睡眠不足、自由時間の喪失、絶え間ない疲労。しかし「人生に意味を感じるか」と問われると、子を持つ人のほうが高いスコアを示すことが多い。

幸福と意味は、同じ方向を向いていない。場合によっては正反対を向いている。

「良い人生」が幸福な人生なら、子どもは持たないほうがいいのかもしれない。「良い人生」が意味ある人生なら、苦しみを避けないほうがいいのかもしれない。どちらの結論も、どこかおかしい。そもそも意味を求めること自体が病なのだとしたら、問いの前提が最初から壊れている。

追いかけるほど遠ざかる

仮に、幸福こそが「良い人生」の核だとしよう。では、それは手に入るものなのか。

心理学には「ヘドニック・トレッドミル(快楽の踏み車)」という概念がある。ブリックマンとキャンベルが1971年の論文 Hedonic Relativism and Planning the Good Society で提唱した比喩で、人間は良い出来事にも悪い出来事にもやがて適応し、幸福度はもとの水準に戻っていくという仮説だ。

1978年、ブリックマン、コーツ、ジャノフ=バルマンによる有名な研究がこれを裏づけた。宝くじの高額当選者22名、事故で身体が不自由になった29名、そして対照群22名の幸福度を比較したものだ。結果は直感に反していた。宝くじの当選者は対照群より有意に幸福ではなく、むしろ日常の些細な楽しみから得られる喜びは当選者のほうが低かった。一方、事故に遭った人々も、想像されるほどには不幸ではなかった。

つまり、私たちは良いことにも悪いことにも慣れる。幸福のベースラインには恒常性がある。条件をいくら改善しても、感覚はやがて元の水準へリセットされていく。完璧な幸福を約束する装置があったとしても、人はおそらくそれを拒む。幸福が欲しいはずなのに、その幸福が「本物」かどうかを気にしてしまう。

もし幸福が「良い人生」の指標なら、私たちは原理的にゴールに到達できない。踏み車を走り続けるハムスターのように、走れば走るほど同じ場所にいる。それでも明日の朝、また走りたくなるのだから始末が悪い。

同じ人生を永遠に

ここで、別の角度から切り込んだ哲学者がいる。

フリードリヒ・ニーチェは『悦ばしき知識(Die fröhliche Wissenschaft)』(1882年)の第341節で、永劫回帰という思考実験を突きつけた。ある夜、悪魔が忍び寄ってきてこう告げる。おまえがこれまで生きてきた人生を、寸分たがわず、もう一度、そしてさらにもう一度、永遠に繰り返さなければならないとしたらどうか、と。

すべての痛みも、すべての退屈も、すべての後悔も、すべての小さな喜びも。まったく同じ順番で、まったく同じように。永遠に。

ニーチェはこれを「重みのうちもっとも重いもの」と呼んだ。もしこの告知に「もう一度!」と歓喜できるなら、あなたは自分の人生を肯定していることになる。できないなら、あなたは自分の人生のどこかを拒絶している。終わらない今日のなかで、その拒絶すら永遠に反復される。

永劫回帰は、「良い人生」の判定基準として恐ろしく厳格だ。一度きりなら耐えられる苦痛も、永遠の反復には耐えられない。もう一度最初からやり直せたとしても、記憶を持たない自分は同じ道を歩くだけかもしれない。この基準をクリアできる人生が本当にあるのかという問いには、ニーチェ自身も明確には答えていない。

第三の道も行き止まり

この袋小路を見て、別のルートを提案した哲学者がいる。

スーザン・ウルフは2010年の著作 Meaning in Life and Why It Matters で、幸福でも道徳でもない第三のカテゴリーとして「意味のある人生」を打ち出した。ウルフの定義はこうだ。意味ある人生とは、「価値あるものに主観的に惹かれ、それに積極的に関わること(active engagement in projects of worth)」。好きなだけでは足りない。毎日ひたすら砂粒を数えることに没頭しても、それを「意味ある人生」とは呼びにくい。一方で、客観的に価値があっても自分が惹かれないなら意味にはならない。主観的な情熱と客観的な価値が交差するところに、意味は生まれるとウルフは考えた。

整然とした議論だ。けれど、問いは消えない。「客観的な価値」とは何か。誰が決めるのか。ある時代に崇高だったものが、次の世紀にはただの慣習になっている例は無数にある。ウルフの枠組みは「良い人生とは何か」という問いを「価値あるものとは何か」という問いに置き換えただけのようにも見える。

壁にぶつかって横道に逸れたら、そこにも壁があった。

不条理という最終回答

トマス・ネーゲルは1971年の論文「不条理(The Absurd)」で、人生の不条理を二つの視点の衝突として記述した。

一方に、私たちが日常を真剣に生きているという事実がある。仕事に打ち込み、人を愛し、計画を立て、努力する。他方に、一歩引いて眰めたとき、そのすべてが宇宙的な規模では何の意味も持たないという認識がある。百年後、あなたのことを覚えている人はほとんどいない。千年後には確実に誰もいない。

ネーゲルはこの衝突を解消しようとはしなかった。転がり落ちる岩にふたたび向かうシーシュポスに幸福を見出したカミュのように、英雄的な反抗を推奨したわけでもない。むしろ、不条理を認めたうえで、それに対する適切な反応は「皮肉(irony)」だと論じた。自分の営みを真剣に続けながら、同時にその真剣さの根拠のなさを自覚していること。その二重性のなかに、人間の条件がある。

物語のない人生

アラスデア・マッキンタイアは1981年の『美徳なき時代(After Virtue)』で、人間は本質的に「物語を語る動物」だと論じた。自分の人生を理解するとは、自分の行為を物語のなかに位置づけることだ、と。

だが、もし人生の物語が後づけの解釈にすぎないのだとしたら。人生にはそもそも筋書きなどなく、私たちはたまたまの偶然に意味を後から塗りつけているだけなのだとしたら。あなたが「あの経験が自分を変えた」と語るとき、それは事実の記述ではなく、現在の自分が過去に投影した意味かもしれない。物語は、出来事から自然に生まれるのではない。語り手が、混沌に筋道を与えているだけだ。

古代ギリシアのソロンは、リディア王クロイソスにこう言ったとされる。「人の幸福は、死ぬまでわからない」と。人生の物語は、結末が来るまで評価できない。そして結末が来たとき、評価する主体はもういない。どうせ死ぬのだから、評価は原理的に宙に浮いたままだ。

あなたも答えを持っていない

こうして一周してみると、手元には何も残っていない。

アリストテレスの「よく生きよ」は格調高いが、何をもって「よく」とするのかは結局わからない。フランクルの「意味を見出せ」は力強いが、平穏な日常にはうまく接続しない。快楽の踏み車は、追いかけること自体の無意味さを突きつける。ニーチェの永劫回帰は、肯定できる人生があるのかという問いを残して沈黙する。ウルフの第三の道は、入口がまた別の問いになっている。ネーゲルは不条理を認めろと言い、マッキンタイアは物語を語れと言うが、物語の結末を見届ける者はいない。

もしかすると、「良い人生」という概念そのものが幻かもしれない。少なくとも、生きている最中にそれを判定することはできない。人生の途中で「これは良い人生だ」と確信するとき、その確信はまだ起きていないすべてのことを無視している。百年後にはあなたのことを覚えている人もいない

そして、もし人生が終わったあとにしか評価ができないのだとしたら、評価する主体はもう存在しない。

あなたの人生は幸せだろうか。意味があるだろうか。もし「はい」と即答できるなら、その確信はどこから来ているのか。もし答えに詰まるなら、その沈黙はたぶん、どんな回答よりも正直だ。

答えが出ないことを、焦る必要はない。そもそもこの問いに答えが用意されている保証は、どこにもないのだから。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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