信じることの不可能性

人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。

信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。

信頼と依存のあいだ

アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。

ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。信頼するとは、相手がこちらの脆弱性を利用しないと期待することであり、その期待が破られたとき、わたしたちは「がっかり」ではなく「裏切られた」と感じる。信頼には傷つく可能性が組み込まれている。信頼とは、自分の弱みを差し出す行為なのだ。

しかし、ここで立ち止まってみる。善意への期待とは何だろうか。それは相手の内面についての知識だろうか。相手が善意を持っていると「知っている」から信頼するのだろうか。だとすれば、それは何も確かではないはずのこの世界において、あまりにも大胆な認識論的主張になる。他者の内面を「知る」ことなど、そもそもできるのだろうか。

知識、感情、賭け

信頼の哲学的分析には、大きく分けて三つの方向がある。

信頼は知識である、という立場。ラッセル・ハーディンの「包括的利益(encapsulated interests)」理論がこれに近い。ハーディンによれば、わたしたちが誰かを信頼するのは、相手がこちらとの関係を維持する利益を持っていると判断するからだ。信頼とは、相手の動機についての合理的な評価にもとづく認知的態度である。しかしこの説明は、信頼を計算に還元してしまう。計算できるものを信頼と呼ぶ必要があるのか。それは単なるリスク評価ではないか。

信頼は感情である、という立場。カレン・ジョーンズは信頼を「感情的態度(affective attitude)」として捉えた。信頼するとき、わたしたちは相手に対してある種の楽観的な感覚を抱いている。それは計算ではなく、もっと身体的で、もっと前反省的なものだ。赤ん坊が養育者を信頼するとき、そこに合理的計算はない。しかし感情だとすれば、信頼は意志の力では制御できないことになる。信頼しようと決意しても、信頼は生まれない。恋愛と同じだ。「愛そう」と決めても愛は来ない。

信頼は賭けである、という立場。これはおそらく最も正直な記述だ。相手が裏切るかもしれないと知りながら、それでも信じる。根拠なき跳躍。キルケゴールの信仰の跳躍にも似た構造がそこにはある。しかし賭けだとすれば、信頼には本質的に愚かさが含まれることになる。合理的に考えれば信じないほうがいい場面で、それでも信じてしまうこと。それを美徳と呼ぶか愚行と呼ぶかは、結果が出てからでないとわからない。

どの立場を取っても、信頼はすっきりとは説明できない。知識にしては根拠が脆く、感情にしては社会的機能が大きすぎ、賭けにしては日常的すぎる。

ルーマンの信頼、あるいは複雑性の縮減

ニクラス・ルーマンは信頼を、まったく別の角度から捉えた。ルーマンにとって信頼とは、社会的複雑性を縮減するメカニズムだ。

世界は複雑すぎる。未来は不確定だ。あらゆる可能性を考慮していたら、わたしたちは一歩も動けない。信頼はこの複雑性を縮減する。「あの人は約束を守るだろう」と信じることで、未来の可能性の空間が狭まり、行動が可能になる。信頼は真理の問題ではなく、機能の問題なのだ。

ルーマンはさらに、人格的信頼システム信頼を区別した。人格的信頼とは、特定の個人に対する信頼だ。友人を信じる、恋人を信じる、同僚を信じる。一方、システム信頼とは、貨幣制度、法制度、交通システムといった抽象的なシステムに対する信頼だ。わたしたちは紙幣に価値があると「信頼」している。赤信号で車が止まると「信頼」している。

近代社会の特徴は、人格的信頼からシステム信頼への重心移動にある、とルーマンは言う。もはやわたしたちは、顔の見える相手を個別に信頼する必要がない。システムが機能していれば、それでいい。しかし、システム信頼とは、結局のところ何を信頼しているのだろうか。システムの「善意」を信じているわけではない。システムには善意がない。わたしたちが信頼しているのは、システムが「いままで通り動きつづける」ということだけだ。それは信頼というよりも、惰性に近い。

裏切りのあとに

信頼が壊れたとき、それは修復できるのか。

この問いは、哲学というよりもむしろ実存的な問いだ。裏切られた人間が再び信じようとするとき、そこで起きていることは何なのか。

ベイアーの枠組みで言えば、裏切りとは善意の期待が破壊されることだ。相手がこちらの脆弱性を利用した、あるいは利用することを厭わなかった。その認識は、単なる情報の更新では消えない。「もう一度信じよう」と決意しても、身体が覚えている。裏切りの記憶は、認知ではなく感覚として残る。

ヴィクトリア・マクギアは「治療的信頼(therapeutic trust)」という概念を提案した。これは、相手がまだ信頼に値することを示していない段階で、あえて信頼を与えることで、相手の行動を変える可能性に賭ける態度だ。信頼が信頼に値する行動を生み出す。一種の自己成就予言。しかしこれは、信頼する側に大きなリスクを負わせる。再び裏切られる可能性を受け入れなければならない。

赦せないまま死ぬことがあるように、信じられないまま生きることもある。赦しと信頼は似ているようで違う。赦しは過去に向かう行為だが、信頼は未来に向かう行為だ。過去を赦せても、未来を信じられないことがある。逆に、過去を赦さないまま、未来を信じようとすることもある。どちらにしても、そこに合理的な根拠はない。

リチャード・ホルトンは信頼を「参与者の構え(participant stance)」として捉えた。信頼するとは、相手を自律的な行為者として扱い、その行為に対して反応的態度(ストローソンの意味での)を取る用意があるということだ。裏切られたときに怒りを感じるのは、まさにその構えの現れだ。信頼の再構築とは、この構えをもう一度取りなおすことだが、一度怒りを経験した者が同じ構えを取れるかどうか。それは誰のせいでもないと割り切れるほど、人間は器用ではない。

監視と信頼の消滅

現代のテクノロジーは、信頼という問題をまったく別の位相に移動させた。

監視カメラ、GPS追跡、ブラウザの閲覧履歴、SNSの行動ログ。あらゆる行動が記録され、検証可能になったとき、信頼は不要になるのではないか。相手が何をしているか「知っている」なら、信頼する必要はない。信頼とは、知らないことに対する態度だからだ。すべてが既知になれば、信頼の出番はない。

透明人間の倫理で論じたように、監視のまなざしは行動を変える。フーコーのパノプティコンは、囚人が「見られているかもしれない」と感じるだけで自己規律が働く装置だった。しかし完全な監視が実現したとき、そこに残るのは信頼ではなく服従だ。信頼が不要になるのではない。信頼が不可能になるのだ。

なぜか。キャサリン・ホーリーの「コミットメント理論」によれば、信頼するとは、相手があるコミットメントを果たすと期待することだ。しかし監視下では、相手がコミットメントを果たしているのか、それとも監視されているから従っているだけなのかが区別できない。監視は、善意と服従を見分けられなくする。鎖を愛した動物が鎖を自発的に選んだのか、鎖しか知らなかったのかがわからないように。

監視社会の皮肉は、すべてを知ろうとすることで、かえって何も「信じられなく」なることだ。信頼は無知を必要とする。知りすぎた関係に信頼は生まれない。恋人のスマートフォンを覗き見る行為が関係を壊すのは、情報を得たからではない。信頼を放棄したことが露呈するからだ。

IEPの監視倫理に関する議論でも指摘されているように、監視はモニタリングされる側だけでなく、する側の態度も変容させる。監視者は相手を信頼の対象ではなく、管理の対象として扱いはじめる。そこには善も正義もない。あるのは効率だけだ。

信頼の不可能性について

結局のところ、信頼とは何だったのか。

知識だとすれば、わたしたちは他者の内面を知ることができないから、信頼は常に誤認にもとづいている。感情だとすれば、信頼は制御不能であり、意志の力では生み出せない。賭けだとすれば、信頼は本質的に非合理的であり、正当化できない。

ルーマンが言うように、信頼は複雑性の縮減であり、社会の機能的要請だとしても、それは信頼の必要性を説明するだけで、信頼の可能性を説明しない。わたしたちは信頼を必要としている。しかし、信頼の根拠を問えば問うほど、根拠は溶けていく。

信頼とは、根拠なしに未来に身を投げ出すことだ。そしてわたしたちは、その跳躍が正しかったかどうかを、着地するまで知ることができない。着地してもなお、わからないかもしれない。相手の善意が本物だったのか、たまたま利害が一致しただけなのか。それは永遠にわからない。

それでもわたしたちは信じる。信じるしかないから信じるのか、信じたいから信じるのか、それすらもわからないまま。誰も何も選んでいないのと同じように、誰も本当には信じていないのかもしれない。信頼とは、自分が信じていると思い込むための、精巧な自己欺瞞なのかもしれない。

正直は美徳ではないのと同じように、信頼もまた美徳ではない。それは必要悪だ。あるいは、必要でさえないのかもしれない。ただわたしたちが、他者なしには生きられないという事実の、別名にすぎない。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

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綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu