調べ終わった朝は来なかった

情報が足りないと嘆いていた時代があった。図書館に通い、人に尋ね、それでも知り得ないことを「仕方がない」と受け入れていた。少なくともあの時代は、「足りない」という診断だけは正しかった。

いまは違う。情報はある。検索ひとつで論文が降ってくる。動画が解説してくれる。SNSが意見を並べてくれる。そしてあなたは、その情報の洪水の前で、かつてより正確に間違えるようになった。

もう少しだけ調べよう、と思う。もう少しだけ。その「もう少し」が判断を永遠に先送りにしていることに気づく頃には、決めるべき時間はとうに過ぎている。

閾値を超えた情報

バリー・シュワルツが「選択のパラドックス」で示したのは、選択肢が増えるほど人は選べなくなるという逆説だった。ジャムの試食実験は有名だろう。24種類のジャムを並べると試食する人は増えるが、実際に購入する人は6種類のときの10分の1に落ちる。

この構図は、選択肢だけでなく情報にもそのまま適用できるかもしれない。情報が少ない時代、人はそれを「不足」と呼んだ。情報が増えれば判断の質は上がるはずだった。実際、ある地点まではそうだろう。しかし一定の閾値を超えると、情報の追加はもはや判断を改善しない。むしろ劣化させる。決断できない状態の構造が指摘したように、選択肢の重みに押しつぶされて人は立ち尽くす。情報もまた、同じ重力を持っている。

「もう少しだけ」が終わらない

「もう少し調べてから決めよう」。この言葉を何度口にしただろう。

分析麻痺(analysis paralysis)と呼ばれる状態がある。情報を集めれば集めるほど、「十分に調べた」と判断する基準そのものが後退していく現象。情報が足りないのではない。「足りた」と感じる能力が、情報量に比例して摩耗していく。

医療の場面で、セカンドオピニオン、サードオピニオンを求め続けて治療開始が遅れる。就職活動で企業研究を際限なく続けて応募そのものができなくなる。レポートの先行研究を読めば読むほど、自分のオリジナリティが見つからなくなる。「もう誰かが書いている」という感覚。

足りないのは情報ではない。「ここでやめる」という決断だ。しかしその決断のために、あなたはまた情報を探し始める。

見たいものしか見えない

情報が少ない時代には、限られたソースから否応なく多様な見解に触れた。新聞は一紙しか取らないかもしれないが、その一紙の中には興味のない記事も、反対意見も、知らない世界も混在していた。

情報が無限に選べる環境では、この偶然の出会いが消える。確証バイアスという認知の偏りがある。人は自分の既存の信念を裏付ける情報を優先的に収集し、矛盾する情報を無意識に退ける傾向を持つ。情報が限られているとき、この偏りはある程度抑制されていた。選べる情報の範囲が狭いから、好むと好まざるとにかかわらず異なる視点に触れざるを得なかった。

しかし検索エンジンとレコメンドアルゴリズムの時代、人は自分の信念を補強する情報だけを効率的に集められるようになった。情報量の増加が、視野の拡大ではなく狭窄を招く。選んだはずの指先が止まらない夜にで触れたように、選んでいるはずの指は、実はアルゴリズムに導かれているだけかもしれない。

情報の民主化は、確証バイアスの民主化でもあった。

調べることが目的になるとき

「よく調べること」は良い判断のための手段だった。少なくとも、そういうことになっていた。

しかし手段が目的を侵食する現象がある。永遠の素振りで触れたグッドハートの法則がここでも顔を出す。「よく調べた人は良い判断をする」という相関が観測されると、人は「良い判断をするために」ではなく「よく調べた人であるために」調べ始める。調べること自体が判断の代替物になる。

「詳しくなる」ことと「正しく判断する」こと。この二つは重なることもあるが、同じスキルではない。レストランの口コミを食べログ、Google Maps、Instagram、YouTubeのすべてで確認した結果、結局何も決められず近場のチェーン店に入る。投資判断のために企業の決算書、アナリストレポート、SNSの噂、マクロ経済指標をすべて追った個人投資家が、インデックスファンドに負ける。

追加情報の限界価値が、ある時点でほぼゼロに近づいていたとしても、「もう少し調べたい」という欲求は減衰しない。知ることへの渇望と、判断の改善は、どこかで別の道を歩き始めている。

専門家も溺れている

情報量が増えれば、少なくとも専門家の判断は改善されるのではないか。素人より多くのデータにアクセスでき、それを解釈する訓練を積んでいるのだから。

フィリップ・テトロックの研究は、この期待に冷水を浴びせた。テトロックは約20年にわたり、政治学者、経済学者、地域研究者など数百人の専門家に将来の予測を求め、その精度を追跡した。結果として明らかになったのは、専門家の予測精度が、単純な統計モデルとほとんど変わらなかったという事実。特に「一つの大きな理論で世界を説明しようとする」タイプの専門家ほど、予測は外れた。

さらに興味深いのは、専門知識が増えるほど予測精度が向上するわけではなかったという点。テトロックの言葉を借りれば、「知識の限界収穫逓減点に、私たちは不安になるほど早く到達する」。専門家同士の意見の不一致率は、素人が想像するよりはるかに高い。情報量が増えても、収束しない領域がある。特に未来の予測において。何も確かではないという認識は、専門家にとっても素人にとっても、等しく重い。

不安を生産する検索窓

症状をGoogleで調べたことがあるだろう。頭痛。検索する。片頭痛かもしれない。もう少し調べる。脳腫瘍の可能性。さらに調べる。希少な神経疾患の症例報告。夜の3時、あなたは自分が重篤な疾患を抱えていると半ば確信している。

「サイバーコンドリア」と呼ばれる現象がある。医療情報の検索が、安心ではなく不安を生産するメカニズム。情報にアクセスできることが、健康不安を解消するのではなく増幅する。ここにも情報のパラドックスの構造がある。情報が少なければ「わからない」で済んでいたものが、情報があるからこそ「最悪の可能性」が可視化される。しかも確証バイアスが作動するから、一度不安を抱くと、不安を裏付ける情報ばかりが目に入る。

知れば知るほど暗くなるのに誰も懐中電灯を置けない。知ることの不可逆性が、ここではひときわ残酷に機能する。

知らないままでいることの知性

人工知能の研究に「フレーム問題」と呼ばれる古典的な難題がある。ある行為の結果を推論するとき、関連する情報と無関連な情報をどう区別するか。理論上、あらゆる可能性を考慮しなければ完全な推論はできない。しかしあらゆる可能性を考慮していたら、永遠に行動できない。

人間が日常的に判断を下せているのは、「考えないことを選んでいる」からだとも言える。すべてを知ることは不可能であるだけでなく、望ましくもない。

右肩上がりの絶望が示したように、「もっと多く」が「もっと良く」を意味しない領域は、経済にも幸福にも、そして情報にも広がっている。ある種の無知は、怠惰ではなく適応かもしれない。知らないままでいることの中に、壊れずに判断を続けるための知恵が隠れているとしたら。

しかし、「知らないままでいよう」と意識的に決めること自体が、すでに「何を知らないでいるべきか」を知っていることを前提にしている。つまり、無知の戦略的選択は、情報に溺れた後にしか手に入らない。


ニュースの速報を追いかけ、口コミを比較し、論文を読み漁り、セカンドオピニオンを求め、そのすべてが終わったとき、あなたの手元には判断ではなく、判断の不在だけが残っている。

情報は足りている。おそらく、とうの昔から。足りていないのは、「足りている」と認める勇気でもない。そんなものがあったところで、次の検索窓はもう開いている。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu