人生は長い、いささか長すぎる
長すぎるんだ。
誰もそうは言わない。言ってはいけないことになっている。人生は短い、だから大切にしろ。毎日を最後の日のように生きろ。そういう言葉を人は互いに交わす。お守りのように。呪文のように。
でも本当は、わかっているはずだ。今日が終わっても、明日が来る。明日が終わっても、明後日が来る。季節は巡り、カレンダーは新しくなり、年齢は増えていく。その繰り返しが途方もなく続くことの重さを、真正面から受け止めている人は少ない。
これは、その重さについてのメモだ。
退屈の発明
退屈は、おそらく人間だけが手にした発明品だ。
犬は窓の外をじっと見つめる。あれは退屈ではない。ただ見ているだけだ。猫は日差しの中で何時間も動かない。あれも退屈ではない。ただそこにいるだけだ。人間だけが「自分はいま退屈している」と自覚する。そしてその自覚が、さらに深い退屈を呼び込む。退屈に気づいてしまった退屈。再帰的な退屈。人間の意識が生んだ、最も厄介な副産物。
ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』のなかで、人生を振り子に喩えた。欲望が満たされなければ苦しみ、満たされれば退屈する。揺れは止まらない。止まるのは死ぬときだけだ。この喩えの残酷なところは、振り子の「真ん中」に安息がないことだ。苦痛でもなく退屈でもない瞬間は、少なくともショーペンハウアーの世界には存在しない。
パスカルはもっと端的だった。『パンセ』に曰く、人間のあらゆる不幸はただひとつのことに由来する。ひとりで部屋のなかに静かに座っていられないこと。仕事、恋愛、旅行、趣味。すべては「気晴らし(divertissement)」にすぎない。自分自身と向き合うことの恐怖から逃れるための、壮大な迂回路。
ハイデガーは退屈をさらに深い場所まで掘り進めた。1929年から30年にかけての講義『形而上学の根本諸概念』で、退屈を三つの層に分けている。第一に、何かに退屈させられること。電車を待つ退屈、つまらない映画を観る退屈。第二に、何かに際して退屈すること。パーティーに出席して、楽しんでいるつもりなのに、どこか空虚な感覚。第三に、「なんとなく退屈だ」という底なしの退屈。原因がない。対象がない。世界全体が等しく灰色で、何をしても何もしなくても同じだという、深い無関心。ハイデガーはこの第三の退屈のなかにこそ、存在への根源的な問いが沈んでいると考えた。
考えてみれば、現代のスマートフォンは第三の退屈にたどり着くことをほぼ不可能にした。五秒の空白があればスクロールする。三十秒あれば動画を見る。隙間という隙間を情報で埋め尽くして、人間は退屈から逃げ切ったように見える。ただ暇が怖いだけかもしれないのに。しかし逃げ切ったのだとしたら、退屈と一緒に置き去りにしたものがある。退屈の底に眠っていたかもしれない、何かを。
賞味期限のある信仰
意味には消費期限がある。これは比喩ではなく、ほとんど経験則だ。
昨日まで命がけだったプロジェクトが、今日はどうでもいい。去年の夢は今年の苦笑いで、十年前の信念は考古学の対象だ。意味というものは、放っておけば必ず腐る。そして腐った意味の代わりに、人間は急いで新しい意味を調達しなければならない。このサイクルは死ぬまで続く。意味という病だ。
カミュは『シーシュポスの神話』で、この事態に名前をつけた。不条理(l'absurde)。それは世界の性質でも人間の性質でもない。意味を求めてやまない人間と、何も答えない世界との衝突から生じるものだ。人間は「なぜ」と問う。世界は沈黙する。問いと沈黙のあいだに横たわる深淵を、カミュは不条理と呼んだ。
トマス・ネーゲルは1971年の論文 The Absurd で、この問題にもう少し日常的な照明を当てた。不条理の源は宇宙の広大さでも人生の短さでもない。それは、自分の人生を真剣に生きながら、同時にその真剣さが恣意的だと気づいてしまう人間の奇妙な能力にある。会議で真面目に発言している自分を、もうひとりの自分が冷めた目で眺めている。この分裂が不条理の正体だとネーゲルは言う。
ここで気になることがある。意味が賞味期限つきだと知りながら、それでも意味を信じることは可能なのか。あるいは逆に、賞味期限を知っているからこそ、今この瞬間だけは信じられるのか。ワインは開けた瞬間から酸化が始まる。しかし最初の一口が美しいことに変わりはない。意味も同じなのかもしれない。開封済みの信仰。それでも口に含めば、味はする。
もっと根本的な疑問がある。そもそも「生きる意味」を問うこと自体が、パスカルの言う気晴らしのひとつなのではないか。意味を探す行為そのものが、意味の不在から目を逸らすための手段だとしたら、人間はどこまでも自分自身から逃げ続けていることになる。走りながら逃げている。逃げながら走っている。どちらが先かもわからないまま。
忘れるという才能
忘却は、人間に与えられた最も慈悲深い贈り物かもしれない。あるいは最も残酷な。
ニーチェは『道徳の系譜』の第二論文で、忘却を単なる怠惰や故障として扱うことを拒否した。忘れることは積極的な能力だ。精神的な消化であり、新しい経験を受け入れるための空間を作る衛生機能だ。すべてを記憶し続ける精神は、消化できないまま食べ続ける胃のようなものだ。いずれ壊れる。
ボルヘスの短編「記憶の人フネス」は、この洞察を文学的に裏返した作品だ。落馬の事故以来、完全な記憶を手に入れたフネスは、何ひとつ忘れることができない。そのためにあらゆる瞬間を完璧に保持しているが、その代償として抽象的に思考する能力を失った。ある時刻に横から見た犬と、別の時刻に正面から見た犬を、同じ「犬」という概念でくくることができない。すべてが個別的で、具体的で、圧倒的に詳細で、彼は自分の記憶に溺れていく。完全な記憶は、完全な知性の喪失だった。
人間は自分の過去をつねに編集しながら生きている。何を覚え、何を忘れるかによって、人生の物語は書き換わる。あの恋が美しかったのは、痛みの大部分を忘れたからだ。あの失敗が教訓になったのは、恥辱の細部が薄れたからだ。忘却は裏切りではなく、物語の必要条件だ。
しかしいま、忘却はますます困難になりつつある。インターネットは忘れない。十年前の投稿は検索すれば出てくる。二十年前の写真はクラウドに残っている。EUが「忘れられる権利(right to be forgotten)」を法的概念として整備しなければならなかったのは、テクノロジーが人間の忘却機能を外部から侵食しつつあるからだ。忘れることが許されない世界で、人間の精神はどこへ向かうのか。フネスのように、詳細の海に沈むのか。
同じ朝が来る
ニーチェは『悦ばしき知識』第341節で、おそらく哲学史上もっとも残酷な思考実験を提案した。
ある夜、悪魔が忍び込んできて、こう囁く。おまえがこれまで生きてきた人生を、もう一度、そしてさらに何度でも、まったく同じように生きなければならない。何ひとつ新しいことは起こらない。あらゆる痛み、あらゆる喜び、あらゆるため息が、同じ順番で戻ってくる、と。
永遠回帰。ニーチェにとってこれは宇宙論的な仮説ではなく、実存的な踏み絵だった。この宣告に絶望するか。それとも「もう一度」と言えるか。
しかし、この思考実験の本当の恐ろしさは、繰り返しそのものにあるのではないかもしれない。恐ろしいのは、いまこの瞬間の人生が、すでに反復のように感じられるということだ。月曜日。仕事。帰宅。食事。睡眠。火曜日。同じことの同じ順番。永遠回帰を持ち出すまでもなく、毎朝のアラームがすでにその縮小版ではないか。
ニーチェの問いを日常に翻訳するなら、こうなるだろう。今日という一日を、もう一度まったく同じように過ごしたいか。この退屈を、この疲労を、この微かな不満を、永遠に繰り返したいか。もう一度、最初からやり直したところで、何が変わるのか。
「毎日を最後の日のように生きろ」と人は言う。けれど、本当に突きつけるべき問いは別にある。毎日を「最初の日のように」生きられるか。すべてが新しく、すべてが不確かで、すべてがまだ何にもなっていない朝。その状態に大人は耐えられるか。たぶん耐えられない。だからルーティンを作る。繰り返しのなかに身を隠す。反復は牢獄であると同時に、避難所でもある。そうして何も起きなかった日が積み重なって、人生になる。
時計は何も知らない
「時間がない」と人は言う。しかし時間を「持つ」ことなど、一度もできたためしがない。
アウグスティヌスは『告白』第11巻で正直に書いた。「時間とは何か。誰も問わなければ、私は知っている。しかし問われて説明しようとすると、わからなくなる。」十六世紀以上前の告白だが、この困惑は今も解消されていない。過去はもう存在しない。未来はまだ存在しない。現在は一瞬で過去に変わる。「いま」と呼ばれているものは、過去の記憶と未来の予測のあいだにある、幅のない境界線にすぎないのかもしれない。
ベルクソンは時計の時間と経験の時間を峻別した。時計が刻む時間は均質で、計量可能で、空間化されている。しかし生きられる時間はまるで違う。楽しい時間は溶けるように過ぎ、退屈な時間は引き延ばされ、苦しい時間は凝固する。「持続(durée)」とベルクソンが呼んだこの内的時間は、時計とは別の次元に属している。
子どもの頃、夏休みは永遠に続くように感じられた。八月の終わりはいつも地平線の向こう側にあった。あの感覚はどこへ行ったのか。新しい経験が多いほど時間は遅く感じられるという説明はあるけれど、それは本当に「説明」と呼べるものだろうか。大人になるとは、時間が加速することなのか。それとも、加速に慣れることなのか。
時計を見つめる。秒針が動く。しかし秒針は時間を測っているのであって、時間を捕まえているわけではない。カレンダーをめくる。日付が進む。しかし日付は時間を並べているのであって、時間が何かを教えてくれるわけではない。時計もカレンダーも、時間について何ひとつ知らない。そして時間について何ひとつ知らないまま、人間は時間のなかを生きている。
何もしないという労働
何もしないことは、現代においてほぼ犯罪に近い。
生産性。効率。最適化。セルフマネジメント。何かをしていなければ存在を正当化できない世界で、何もしない人間は居場所を失う。「忙しい?」と聞かれて「いや、暇だ」と答えることは、ある種の告白に等しい。自分には価値がない、と。
パスカルはとうに見抜いていた。何かをしている限り、自分と向き合わなくて済む。スケジュールを埋めることは、自分自身を回避するための最も社会的に承認された方法だ。「忙しい」は現代の免罪符だ。何から免じているのかと問われれば、自分自身から、と答えるしかない。
セネカは『人生の短さについて』で、人生は短いのではなく浪費されているのだと書いた。忙しく走り回る人間は、自分の人生を生きていない。他人の期待に時間を費やし、社交に時間を費やし、「いつか本当にやりたいことをやろう」と思いながら時間を費やす。その「いつか」は来ない。来る前に時間が尽きる。
何もしない時間に耐えられるかどうかは、自分自身に耐えられるかどうかと同じことだ。何もしないとき、残るのは自分だけだ。自分の思考、自分の不安、自分の退屈、自分の沈黙。パスカルが恐れたものが、そこに待っている。何もしないことは、自分と対面する勇気の別名かもしれない。あるいは単に、逃げることに疲れただけかもしれない。
自分という他人
朝、目を覚ます。自分はまだ自分だ。これは安堵なのか、それとも落胆なのか。
なぜ自分は自分なのか。どこが私なのか。これは哲学のなかでも最も素朴で、最も手に負えない問いのひとつだ。なぜこの身体のなかにいるのか。なぜこの時代に、この場所で、この意識をもって存在しているのか。答えは見つからない。おそらく問いの形そのものが間違っている。しかし間違っていても、問いは消えてくれない。
キルケゴールは『死に至る病』で、絶望を自己との関係の病として描いた。人間は「自己自身に関係する関係」である。自分が自分であることに対して、何らかの態度をとらなければならない。引き受けるか、逃げるか。しかしどちらを選んでも、ある種の絶望がつきまとう。引き受ければ重さに潰される。逃げれば、自分でないことの空虚に蝕まれる。
サルトルは「実存は本質に先立つ」と言った。人間にはあらかじめ決められた「本質」がない。まず存在し、それから自分を作っていく。何にでもなれる。しかし何にでもなれるということは、何でもなくなりうるということでもある。キルケゴールは『不安の概念』で、不安を「自由のめまい」として描写した。深淵の前に立つめまいは、落ちることへの恐怖だけではない。自分が飛び込むかもしれないという可能性への恐怖だ。自由とは、深淵に面したときに自分が何をするかわからないということだ。
「本当の自分を探す」という表現がある。しかし探すべき「本当の自分」なるものが、どこかに固定された実体として存在するという前提自体が怪しい。サルトルに従えば、そんな本質はない。あるのは、つねに作りかけの、未完成のまま更新され続ける何かだけだ。「自分探し」はたぶん、固定された本質があってほしいという願望の裏返しだ。何者でもないことの不安に耐えられない人間が、「本当の自分」という架空の安定点を必要としている。
全員が孤独だ
他人が存在するということは、考えれば考えるほど不可解で、救いがない。
サルトルは『存在と無』で、他者の「まなざし(le regard)」を分析した。他者に見られた瞬間、自分は自由な主体から対象へと転落する。自分が自分について描いているイメージが、他者の視線によって揺さぶられる。自分の定義を、他者が握っている。だからサルトルは戯曲『出口なし』の登場人物にこう言わせた。「地獄とは他者のことだ(L'enfer, c'est les autres)。」
ただし、この台詞はしばしば誤読される。サルトルが言いたかったのは「他人なんかいなければいい」ということではない。他者との関係のなかで、人間は不可避的に自分を「見られる存在」として経験せざるをえないという、構造的な事実を述べている。他者は鏡だ。しかもこちらが望まない角度から映す鏡だ。
しかし他者の問題には、もっと静かな残酷さがある。他者もまた、自分とまったく同じように退屈し、意味を探し、夜中に天井を見つめている。自分の孤独はユニークではない。地球上の数十億の人間が、それぞれの孤独のなかにいる。そしてこの事実は、孤独を慰めるどころか、かえって深くする。孤独は治らない。
誰かと同じ部屋にいる。同じ音楽を聴いている。同じ風景を見ている。しかし同じ部屋にいることは、同じ経験をしていることを意味しない。隣にいる二つの意識が互いに完全には触れ合えないまま、並んで退屈している。「一緒にいる」とは、おそらくそういうことだ。
共感は可能なのだろうか。誰かが泣いているとき、こちらも胸が痛む。しかしそれは「同じ」痛みなのか。「わかるよ」と言うとき、本当にわかっているのか。それとも「わかりたい」という善意を表明しているにすぎないのか。あなたは私を知りうるか。もし共感が原理的に不可能だとしたら、人間関係の基盤は何だろう。わかり合えないことを知りながら、それでも隣にいること。それが愛だと呼べるなら、愛はずいぶん淋しいものだ。
届かない言葉
ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の末尾に、あの一文を置いた。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」
正しい。正しいが、人間はこの命令にまるで従えない。
死について語る。愛について語る。美について語る。語りえぬもののまわりを、言葉でぐるぐると回り続ける。世界はそこで終わっているのかもしれない。中心に到達することはない。到達しないとわかっていても、やめられない。もしかしたら到達しないからこそ、やめられないのかもしれない。
「悲しい」という四文字は、胸のなかで起きている嵐の何パーセントを運べるだろう。「美しい」という三文字は、いま目の前にある夕焼けのうちどれだけを保存できるだろう。言葉は近似値だ。現実の粗い解像度のコピーだ。しかしそのコピーがなければ、人間は経験を共有することも、記憶を保存することも、思考を積み重ねることもできない。不完全な道具に依存している。依存しながら、その不完全さに苛立っている。
詩は、もしかしたら散文よりも正確に何かを運んでいるのかもしれない。散文が意味を正面から捕まえようとするのに対して、詩は意味の輪郭を照らす。比喩、韻律、改行、沈黙。正確さを手放すことで、別の正確さに手が届く。哲学が文学的表現を必要とするのだとしたら、たぶんそういうことだ。語りえぬものを語るための最も誠実な方法は、語りえないということ自体を、言葉の形にすることなのかもしれない。
あるいは沈黙こそが、最も正確な言語なのか。向かい合って何も言わない時間のなかに、言葉以上のものが流れている瞬間がある。それは錯覚かもしれない。でも、言葉が正確だというのも、同じ程度には錯覚だ。
最悪の美徳
希望は美徳だとされている。疑う人は少ない。しかし希望ほど疑われるべきものも、あまりない。
ヘシオドスの『仕事と日』に記されたパンドラの物語。壺からあらゆる災いが世界に放たれた後、底に最後に残ったのは希望(エルピス)だった。この細部の解釈は古代から分かれている。希望が残ったのは救いなのか。それとも、希望こそが最後にして最悪の災いだったのか。ヘシオドスの原典はこの問いに答えを出していない。二千数百年のあいだ、答えは宙に浮いたままだ。
ニーチェは答えを出した。『人間的な、あまりに人間的な』第71節で、希望を「諸悪のうち最悪のもの」と呼んだ。理由は明快だ。希望は苦しみを引き延ばす。希望がなければ、人は耐えきれなくなって早々に手を放すことができる。希望があるから、もう少し、もう少しと握り続けてしまう。手のひらが擦り切れても。
カミュは別の道を歩いた。『シーシュポスの神話』で描いたのは、希望なき反抗だ。山頂に向かって岩を押し上げるシーシュポス。岩は必ず転がり落ちる。意味はない。終わりもない。しかしカミュはこの書の末尾にこう記した。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない。」岩はまた転がり落ちる。それでも。希望を持つのではなく、希望の不在を受け入れた上で、それでも押し続けること。希望と反抗のあいだには、見かけ以上に深い溝がある。
「明日はよくなる」と信じることは、一見すると前向きな態度に見える。しかし裏を返せば、それは「今日はよくない」という宣言でもある。希望はつねに今日を否定する形でしか存在できない。希望を持ち続ける限り、人は永久に「今日」を生きることができない。希望が叶った明日は、すぐに新しい「今日」になり、そこにはまた新しい希望が必要になる。このループに出口はあるのか。
選ばなかった人生
何かを選ぶことは、同時に他のすべてを選ばないことだ。選択は可能性の葬送である。
キルケゴールは『あれか、これか』で、この構造を容赦なく描いた。結婚するか、しないか。どちらを選んでも後悔する。結婚すれば自由を失い、しなければ孤独を招く。これは結婚だけの話ではない。選択そのものの構造についての洞察だ。何かを選ぶたびに、選ばなかったもうひとつの人生が永久に失われる。そして失われた人生は、記憶のなかで美化される。行かなかった場所はつねに美しく、会わなかった人はつねに理想的だ。
自由意志の問題が、ここに影を落とす。自分は本当に「選んでいる」のか。遺伝子、環境、過去の経験、神経回路の電気信号。選択の瞬間に「私」が介入する余地は、本当にあるのか。誰も何も選んでいないのかもしれない。もし決定論が正しく、すべてがあらかじめ決まっているのなら、後悔は意味を持たない。選べなかったものについて悔やんでも仕方がない。しかし意味がないとわかっていても、夜中にふと、選ばなかった道が光って見えることがある。理屈は感情を黙らせてはくれない。
選択肢が増えれば人は自由になると思われがちだ。しかし棚に並んだ三十種類のジャムの前で人間が感じるのは、自由ではなく麻痺だ。ひとつを選べば、残り二十九の「もしも」がつきまとう。自由が増えたのではない。後悔の種が増えただけだ。
何も選ばないという選択がある。しかしそれもまた選択だ。サルトルが言うように、人間は「選ばないことを選ぶ」ことからすら逃れられない。自由は逃げ場のない自由だ。
午前三時の論証
夜中の三時に、ふと目が覚める。暗闇のなかで、自分がいつか存在しなくなるという事実が、妙な鮮明さで迫ってくる。昼間なら考えないことだ。昼間は考えなくて済む。しかし午前三時の暗闇には、逃げ場がない。
エピクロスの論証は有名だ。メノイケウス宛ての手紙にこう記されている。死は我々にとって何ものでもない。我々が存在するとき死は存在せず、死が存在するとき我々は存在しない。したがって死は、生者にも死者にも関わりがない。論理としては隙がない。しかし午前三時のベッドの上では、論理の完璧さは何の慰めにもならない。
ハイデガーは『存在と時間』で、死を正面から見据えることを求めた。「死への先駆的決意性」。死を直視してはじめて、人間は日常の惰性から目を覚まし、本来的な生き方へ向かうことができる。死はつねに「私の」死であり、誰にも代わってもらえない。この代替不可能性が、存在のかけがえのなさを逆説的に照らし出す。
しかし、死について「考える」ことと死を「理解する」ことは、まるで別物だ。自分が存在しなくなる。この文を読むことができ、理解することができる。しかしその内容を、実感として掴めている人間がどれだけいるか。たぶん、ほとんどいない。知っているという知識の表面を撫でているだけだ。あなたは死ねない。少なくとも、想像のなかでは。
不死は望ましいか。これもまた厄介な問いだ。永遠に生きるということは、永遠に退屈するということかもしれない。ショーペンハウアーの振り子が果てしなく揺れ続ける。ハイデガーの退屈が底なしに深まっていく。死がなければ意味も消える。締め切りのない仕事に緊張感がないように、終わりのない人生には切迫感がない。どうせ死ぬ。死が意味を与えているのだとしたら、人間は死に感謝すべきなのかもしれない。感謝するにしては、少々手荒な贈り物だけれど。
それでも朝は来る
ここまで書いてきたことは、何ひとつ答えになっていない。
人生は長い。退屈だ。意味は腐る。記憶は消える。同じ朝が繰り返される。時間は誰のものでもない。何もしないことすら許されない。自分が何者かわからない。他者には届かない。言葉は足りない。希望は残酷だ。選ばなかった道が光る。死はいつか来る。
それでも朝は来る。
これは慰めでも励ましでもない。ただの観測事実だ。太陽は地球の自転に従って昇り、目覚ましは設定どおりに鳴り、今日もまた、昨日とほとんど同じ一日が始まる。
しかし、ほとんど同じ一日のなかに、ごくたまに、名前のつかないものが紛れ込む。夕方の光が窓に差し込む角度。コーヒーの湯気の形。どこかから聞こえる笑い声。風が頬に触れる感覚。それらに意味はない。意味がないことが、おそらく重要なのだ。意味を求めた瞬間、それは消えてしまう。ただそこにある。意味の手前で、名前の手前で、ただ存在している何か。
人間はたぶん、その何かのために長すぎる人生を生きている。あるいは、生きてしまっている。どちらでも構わない。
長すぎるんだ。でも、まあ、もう少しだけ。