善も正義もない

あなたは善人ではない。正義の味方でもない。そんなことはとっくに知っている。知っていて、毎朝、善人と正義の味方のふりをして家を出る。その茶番を哲学は2500年かけて証明してきた。以下はその記録だ。読み終えても何も解決しない。むしろ、知らないふりが少しだけ難しくなる。

三等分の絶望

ケーキを三人で分けることを考える。

数学的には精密に三等分できる。しかし、ひとりが「チョコレートの側がいい」と言い、もうひとりが「大きいほうがいい」と言い、最後のひとりが「そもそもケーキなんていらなかった」と言ったとき、三等分という概念は崩壊する。欲望の形が違う人間たちに、ひとつの基準で「公平」を割り当てること自体が、最初から破綻した企てなのだ。

割り勘もそうだ。少食な人間が大食いの人間と同じ金額を払う。「不公平だ」と感じる。その感覚は素朴で、おそらく正当だ。しかし「正当な不満」が存在するなら、不満を解消する「正当な方法」も存在するはずで、その方法が何かについて、三人は永遠に合意できない。

正義とは、要するにそういうものだ。

無知は誰も救わない

ジョン・ロールズは1971年の『正義論(A Theory of Justice)』で、「無知のヴェール(veil of ignorance)」という思考実験を提示した。自分がどんな人間として生まれるかわからない状態で、社会の仕組みを設計せよ。裕福かもしれないし、貧しいかもしれない。人種も性別も才能も、何ひとつわからない。その状態で、あなたはどんなルールをつくるか。

ロールズの答えは「格差原理(difference principle)」だった。合理的な人間なら、社会で最も恵まれない立場の人々の状況が可能な限り改善されるような制度を選ぶだろう、と。自分がその「最も恵まれない人」かもしれないのだから。

美しい。本当に美しい理論だ。

しかし、私たちはすでにヴェールの向こう側にいる。自分が何者であるかを知ってしまった人間に、「知らなかったふりをしろ」と言うことの空虚さを、ロールズが気づいていなかったはずはない。あなたは自分の年収を知っている。自分の立場を知っている。自分がどちら側にいるか、痛いほどわかっている。

知ってしまった人間は、知らなかった頃には戻れない。無知のヴェールは、一度でもめくった者には、二度とかけ直せない。

全員負けている

ロールズから3年後の1974年、ロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア(Anarchy, State, and Utopia)』で真正面から反論した。結果の平等を強制することは、個人の自由と権利の侵害である。重要なのは結果ではなく手続きだ。正当な手段で獲得され、正当な手段で移転されたものは、どれほど不均衡であっても正当である。「権原理論(entitlement theory)」の骨子だ。

一見、筋が通る。だが「正当な手段」の出発点はどこにあるのか。いまこの瞬間の富の分配は、歴史をさかのぼれば征服と搾取と偶然の堆積だ。すべての起点が汚れているとき、手続きの正当性とは、汚れた土台の上に建てた清潔な家のようなものだ。壁がどれだけ白くても、基礎は腐っている。

2009年、マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう(Justice: What's the Right Thing to Do?)』で、功利主義、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムと複数の正義の構想を並べ、それぞれの射程と限界を丁寧に示した。サンデルの誠実さは、明確な答えを出さなかったところにある。

しかし、答えのない問いを美しく整理したところで、問いそのものが消えるわけではない。整理された絶望は、ただの絶望よりも始末が悪い。

正しさは殴りかかる

正義の話をもうひとつだけ。

「正義の味方」は、なぜしばしば暴力的なのか。歴史を少し振り返れば気づく。正しさを確信した人間ほど危険なものはない。自分が正義の側にいると信じている人間は、反対する者を「悪」として処理できてしまう。そこに対話の余地はない。なぜなら、悪と対話する必要は、少なくとも本人の論理の中では、存在しないからだ。

これは特定の思想や立場の問題ではない。左右を問わず、宗教・無宗教を問わず、「自分は正しい」という確信は、あらゆる暴力にとって最も効率的な燃料になる。

正義は、信じた瞬間に凶器になりうる。そして、信じない正義は正義ではない。この矛盾に出口はない。

5人と1人

もう少し具体的な絶望の話をしよう。

5人が線路にいる。暴走するトロッコが迫る。手元にレバーがある。引けばトロッコは別の線路へ逸れるが、そちらには1人が立っている。

たぶんあなたは「引く」と言う。5人と1人。算数としては簡単で、調査でも約9割がそう答えてきた。でも、この問いが60年近く解かれていないのは、算数の問題ではないからだ。問われているのは数ではない。どちらを選んでも誰かが死ぬのに、あなたに選べと言っていることだ。

1967年、哲学者フィリッパ・フットが論文 The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect のなかでこの思考実験の原型を提示した。1976年にジュディス・ジャーヴィス・トムソンが The Monist 誌に発表した Killing, Letting Die, and the Trolley Problem でこれを独立した主題として取り上げ、1985年の The Trolley Problem で鋭い変奏を加えた。

あなたは歩道橋の上にいる。眼下を暴走するトロッコが5人に向かっている。隣に体格の大きな人がいる。突き落とせばトロッコは止まり、5人は助かる。その人は死ぬ。

突き落とすか。レバーなら引けると答える人の大多数が、突き落とすことには強い抵抗を覚える。結果は同じだ。1人が死に、5人が助かる。なのに、直観はまるで異なる反応を返す。功利主義も義務論も徳倫理学も、それぞれ筋の通った答えを持っている。そしてそのどれもが、あなたの手が震えている理由を説明してはくれない。何人殺せば正しくなるのか。数を変えても構図を変えても、その問いだけが残る。

善悪の地図

2016年、MITメディアラボの研究チームがオンライン実験プラットフォーム「モラル・マシン」を公開した。自動運転車が避けられない事故に直面したとき、誰を救い誰を犠牲にすべきか。2018年に Nature 誌に掲載された結果は、233の国と地域から約4000万件の判断を集めたものだった。

全体として、人は動物よりヒトの命を、少数より多数を、高齢者より若者を優先した。しかしその先は文化によって鮮やかに割れた。西欧の文化圏は不作為を比較的許容し、東アジアやイスラム圏は法を守る歩行者を強く優先し、ラテンアメリカとフランス語圏は若者や社会的地位の高い人を救う傾向が顕著だった。

2017年、ドイツ連邦政府の倫理委員会は自動運転に関する指針のなかでこう述べた。「生命と生命のあいだのトレードオフを伴うジレンマ的状況は、標準化することも、倫理的に疑問の余地のない形でプログラムすることもできない」。

正解がないことを、国家が公式に認めた。あなたの道徳は、あなたの生まれた場所の方言にすぎない。

善行は快楽である

正義が壊れているなら、せめて善意は本物だろうか。

人に優しくした日の夜は、少しだけ気分がいい。席を譲った帰り道、なんとなく自分が好きになる。募金箱に小銭を落としたあと、ほんの少し背筋が伸びる。それは善意だったのか。それとも、ただの快楽だったのか。

心理的利己主義(psychological egoism)という立場がある。人間のあらゆる行動は、究極的には自己利益によって動機づけられている、とする記述的な理論だ。「利己的であるべきだ」という規範的主張(倫理的利己主義)とは異なり、ただ「人間は事実としてそうできている」と観察するだけだ。

トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』第14章のなかで、「自発的行為はすべて自分自身にとっての何らかの善を対象とする」と述べた。ホッブズ自身がこの立場を厳密にとっていたかは研究者のあいだで議論が続いているが、問いそのものはどこにも行かずにずっとここにある。

この理論の厄介さは、反証が極めて難しいことにある。どんな利他的行為に対しても「でも結局、気分がよくなっただろう?」と問い返せてしまう。何を差し出しても「でもそれは自己満足だろう」と言い返せるなら、この理論はもはや経験的主張ではなく、定義上の真理に堕している。トートロジーは何も教えてくれない。

しかし何も教えてくれないはずの問いが、なぜこんなにも喉に刺さるのだろう。誰にも見られていなくても、あなたはそうしただろうか。透明人間の倫理は2400年、同じことを問い続けている。

義務という逃げ場

では、快楽を動機としない行為なら、純粋な善と呼べるのだろうか。

イマヌエル・カントは、道徳的価値は義務からの行為にのみ宿ると考えた。「そうしたいから」「気分がいいから」という傾向性による行為には、道徳的価値は認められない。道徳法則への尊敬だけが、行為に本当の意味を与える。

一見、心理的利己主義への鮮やかな反論に見える。義務から行為すれば、快楽という自己利益を動機から追い出せるのだから。しかしカント自身が『道徳形而上学の基礎づけ』のなかで認めていた。ある行為が純粋に義務から行われたのか、それともどこかに傾向性が紛れ込んでいるのか、確実に見分ける方法はない、と。

原理としては美しいが、実践においては永遠に検証できない。あなたが義務から行為したつもりでも、その「義務を果たした自分」にひそかに満足していないという保証は、どこにもない。

逃げ場は、閉じている。

遺伝子は計算する

話を哲学の外に持ち出す。

1964年、生物学者W・D・ハミルトンは血縁淘汰の理論を提唱した。自分の繁殖を犠牲にしてでも血縁者を助ける行動は、共有する遺伝子の観点から合理的に説明がつく。ハミルトンの法則(rB > C)は、血縁度(r)と受益者の利得(B)と行為者のコスト(C)の関係から、利他行動が進化的に安定する条件を数理的に示した。

1971年にはロバート・トリヴァースが互恵的利他主義を提唱した。血縁関係がなくても、将来の見返りが期待できる状況では利他行動は進化しうる。

リチャード・ドーキンスは1976年の『利己的な遺伝子』で、遺伝子レベルでの「利己的」な複製戦略が、個体レベルでは利他的な行動として表れうることを描いた。遺伝子の利己性と個体の利他性は矛盾しない。

進化的な説明は動機の説明とは別だ。しかし不気味な示唆がある。あなたの「善意」という感情そのものが、自己複製する分子の都合によって設計されたものだとしたら、その善意は本当にあなたのものと言えるのだろうか。誰も何も選んでいないのだとしたら、善意の所有者は最初からいない。

誰も線を引けない

善悪の境界線は、いつの時代も誰かが引いてきた。宗教が引き、国家が引き、共同体が引いた。そして線を引いた者はいつも、自分の立っている側を「善」と呼んだ。例外はない。

ニーチェは『善悪の彼岸』(1886年)で、道徳の起源そのものを問い直した。善悪という概念は普遍的真理ではなく、ある集団が自らの価値観を「善い」と名づけ、それに合わないものを「悪い」と退けた歴史的産物にすぎないのではないか。道徳は発見されたのではない。発明されたのだ。

ハンナ・アーレントは1961年、エルサレムでアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴した。ナチス親衛隊の官僚でユダヤ人移送を管理する部門を率いていたこの人物について、アーレントが法廷で目にしたのは、狂信者でもサディストでもなく、命令に従い書類を処理する、どこにでもいそうな役人の姿だった。1963年の『エルサレムのアイヒマン』で彼女が用いた「悪の陳腐さ(the banality of evil)」という表現は、60年以上経った今も色褪せない。巨大な悪は、巨大な悪意から生まれるとは限らない。考えることをやめた、平凡な人間の手から生まれうる。

もっと始末が悪いのは、「自分はちゃんと考えている」と信じている人間ほど、何も考えていない可能性があるということだ。そして仮にそうだったとして、誰のせいでもないのだとしたら、私たちはいったい何を裁けるのだろう。

正しさは電気信号にすぎない

「これは正しい」「これは許せない」という道徳的感覚は、脳内の神経活動が生み出している。前頭前皮質が理性的判断を担い、扁桃体が情動反応を司る。もし道徳的判断がニューロンの発火パターンに還元されるのだとしたら、「正しさ」に客観的な根拠はあるのか。化学反応に正しいも間違いもない。それはただ、起こる。

道徳実在論は応じる。道徳的事実は人間の心とは独立に存在し、脳はそれを認識する器官にすぎない、と。色を知覚するのは脳だが、光の波長は脳の外にある。

道徳相対主義は問い返す。もし道徳が普遍的事実なら、なぜ善悪の基準は時代や文化によってこれほど異なるのか。

この論争は数千年続いていて、決着がつく気配はない。おそらく永遠につかない。そして「決着がつかない」という事実そのものが、善悪を信じたい私たちの足元を静かに崩していく。

あなたのコーヒーは誰かの命

法と道徳は別の体系だ。奴隷制度は合法だった。アパルトヘイトも合法だった。合法であったことが、それらを1ミリも「善い」ものにしなかった。逆に、ソローの『市民の不服従』(1849年)は不正な法に従うこと自体が不正であると論じ、ガンディーもキング牧師も法の外側に立つことで道徳を守ろうとした。

道徳も曖昧、法も不完全。では足元の日常はどうか。

ピーター・シンガーは1972年の論文「飢饉、豊かさ、そして道徳(Famine, Affluence, and Morality)」で、こう問うた。出勤途中、浅い池で幼い子どもが溺れていたら、服が台無しになっても助けるだろう。ならば、コーヒー一杯分の寄付で地球の裏側の子どもを救えるのに、なぜあなたはそうしないのか。池の子どもと何が違うのか。

シンガーは、地理的な距離は道徳的義務を減じないと論じた。見えないことは、存在しないことではない。

あなたは知っている。知っていて、コーヒーを飲んでいる。あなたはもうボタンを押している。毎朝、静かに、無意識に。

完璧な消費者は餓死する

安い服を一枚買う。それがどこで、誰の手で、どんな条件のもとで縫われたか、おおよそ知っている。知っていて買う。コンビニでプラスチックの袋をもらう。肉を食べる。日常のすべてが小さな道徳的選択で埋め尽くされていて、そのほとんどにあなたは負けている。

「買い物は投票だ」と倫理的消費主義は言う。しかし一枚のTシャツを完全にクリーンに買おうとすれば、小さな調査報告書を書かなければならない。オーガニックコットンも水を大量に使う。フェアトレード認証にも批判がある。地産地消を徹底すれば途上国の需要が消える。一つの問題を避ければ、別の問題に加担する。

これはパラドックスではない。単なる現実だ。

そして皮肉なことに、アダム・スミスが『国富論』(1776年)で描いたように、利己心のほうが世界を回してきた。パン屋はパンを焼く。人々に美味しいパンを届けたいからではない。生計を立てたいからだ。結果として、パン屋の利己心は客の利益を生む。善意よりも利己心のほうが多くのパンを焼き、多くの人を雇ってきた。

ただし、スミス自身は『道徳感情論』(1759年)で人間には他者への共感の能力が生得的に備わっていると論じており、利己心だけで世界が回るなどとは一度も言っていない。それでも、善意の優位性をどう擁護すればいいのだろう。

善意には賞味期限がある

すべてに対して道徳的であろうとし続けた結果、判断力が摩耗し、何に対しても無感覚になっていく。道徳的に敏感な人間ほど、この疲労に蝕まれる。何も感じない人間は疲れない。疲れるのは、感じてしまう人間だけだ。優しい人から壊れる。構造的に、必然的に。そして疲れ果てた先にあるのは、道徳的無関心という、最初に避けたかったはずの場所だ。

知らなければ罪にならないのか。安い服の出自を知らなかった頃、あなたは無実だったのか。知った瞬間に有罪になったのか。それとも、知ろうとしなかったという怠慢こそが、ひとつの道徳的選択だったのか。

一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。でも知ったからといって、行動が変わるとは限らない。知識は責任を生むが、責任は行動を保証しない。苦しみは何も教えない。少なくとも、行動を変えてくれるほどには。

知って、それでも変わらない。その状態に名前をつけるとすれば、「普通の人間」と呼ばれる。

それでも朝は来る

ロールズは夢を見た。ノージックは壊した。サンデルは片づけた。フットはレバーを置き、トムソンは歩道橋に人を立たせ、4000万人が答えを出して、答えは割れた。ホッブズは善意の裏に自己愛を見つけ、カントは義務で蓋をして、ダーウィンの子どもたちがその蓋を開けた。ニーチェは道徳を発明品と呼び、アーレントは悪を凡庸と呼んだ。シンガーはコーヒー一杯の罪を数え、スミスの利己心がパンを焼いた。

そしてあなたは、善くも正しくもないまま、ここにいる。

問いは収束しない。膨張する。三等分のケーキから始まった話は、トロッコのレバーを経由し、善意の裏側で自分の顔を見つけ、道徳の地面がないことに気づき、日常の買い物で静かに有罪を宣告され、もっと暗い場所に沈んでいく。

あなたは善人か。あなたの正義は正しいか。あなたは自分の動機を知っているか。あなたが「善い」と信じているものは、普遍的な真理か、それとも生まれた場所と時代が教えてくれた方言にすぎないのか。

インターネットの片隅で、深夜3時に、誰かがこう書き込んでいる。

善も悪も正義も、全部人間が作ったフィクションなら、僕たちが毎日必死に続けているこの生活に、いったい何の意味があるんだろう。

誰も答えていない。意味という病に侵された人間だけが、答えのない場所で問い続けている。

答えられる人間はどこにもいない。でも本当に恐ろしいのはそこではない。恐ろしいのは、答えが出なくても明日が来るということだ。あなたはまた目を覚まし、ケーキを三等分しようとし、レバーの前で立ちすくみ、善人のふりをし、コンビニで何かを買い、帰り道にほんの少しだけ気分がよくなって、それが善意なのか快楽なのか偽善なのかわからないまま、眠りにつく。

そしてたぶん、日常のほうが絶望よりずっとたちが悪い。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

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