人生に筋書きはない

あなたがこの文章を読んでいるのは、偶然だ。

あなたがこの国に生まれたのも、この言語を読めるのも、今日という日にこの画面を開いたのも、すべて偶然だ。もちろん、あなたはそうは思わないだろう。人間はそう思わないようにできている。何かの意味がある、と。ここに至るまでの道のりには筋書きがある、と。

でも、本当にそうだろうか。

この文章は「運命」と「偶然」について考える。考えた結果、何か明確な結論にたどり着くつもりはない。たどり着けるとも思っていない。ただ、考えるほどに足場が崩れていく、その感覚を正直に書き残しておきたいと思った。

「運命」は後から書かれる

「あの出来事がなければ今の自分はいない」。誰もが一度は口にしたことがあるだろう。失敗も、偶然の出会いも、振り返ればすべてが一本の線でつながっているように見える。

だが、それは本当につながっているのだろうか。

ここで起きているのは、おそらく遡行的な意味づけだ。出来事が先にあり、物語は後から来る。私たちは過去の偶然を「あれは必然だった」と語り直すことで、人生に一貫性を与えようとする。だが、それは出来事そのものの性質ではなく、人間の認知が後から塗りつけた色にすぎない。

もしあなたが人生をもう一度最初からやり直せるとしよう。同じ遺伝子、同じ環境、同じ初期条件。果たして同じ人生になるだろうか。直感的には「なる」と思いたくなる。だが、ほんの些細な偶然が分岐点になり、まったく別の人生に至る可能性は十分にある。通学路ですれ違った相手、ある日の天気、ふと目に入った一冊の本。そうした取るに足りない差異の積み重ねが、まったく異なる「今」をつくり出すかもしれない。(この思考実験がどこへ行き着くかについては「もう一度、最初から」で掘り下げた。記憶が残るか残らないかで、やり直しの意味はまるで変わる。)

私たちは、たまたまたどり着いた「今」から振り返って、それを「運命」と呼んでいるだけではないか。

善悪はサイコロが決める

道徳の世界にも、偶然は容赦なく入り込んでくる。

哲学者トマス・ネーゲルは「道徳的運(moral luck)」という問題を鮮やかに描き出した。バーナード・ウィリアムズもほぼ同時期に、別の角度から同じ問題を論じている。

ネーゲルが示した例はこうだ。同じように飲酒運転をした二人がいる。一人は何事もなく家にたどり着く。もう一人は歩行者をはねてしまう。二人の行為は、飲酒運転をしたという点でまったく同じだ。にもかかわらず、私たちは後者をはるかに厳しく非難する。

結果の違いは、本人がコントロールできない偶然に左右されている。それでも道徳的な評価は結果によって大きく変わる。これが道徳的運の問題だ。

カントは、道徳的評価は行為者の意志にのみ基づくべきであり、運に左右されるべきではないと考えた。善い意志は、それが何を成し遂げたかにかかわらず善い。直感的にはもっともらしい。だが、ネーゲルが指摘したのは、私たちの実際の道徳的判断がこの原則にまったく従っていないという厄介な事実だ。

そして、道徳的運は結果だけの問題ではない。あなたがどんな性格に生まれたか。どんな状況に置かれたか。どんな時代と社会に生きているか。それらすべてが、あなたの道徳的評価に影を落としている。

あなたが「善い人間」であるかどうかは、あなた自身の選択だけでは決まらない。サイコロの目が、あなたの道徳的な肖像画をほとんど描き終えている。(運に左右される道徳的評価のもとで「責任」がどうなるかという問いは「誰のせいでもない」で考えた。)

悪魔はとうに計算を終えている

もう少し大きな話をしよう。

1814年、ピエール=シモン・ラプラスは一つの思考実験を提示した。もしある知性体が、宇宙に存在するすべての粒子の位置と運動量を知ることができるなら、古典力学の法則によって、宇宙の過去と未来のすべてを計算できるだろう、と。この仮想の知性体は、後に「ラプラスの悪魔」と呼ばれるようになった。

これは因果的決定論を科学の言葉で表明したものだ。すべてはすでに決まっている。あなたの選択も、あなたの迷いも、この文章を読んでいるという事実も、宇宙の初期条件から必然的に導かれた帰結にすぎない。

もちろん、現代物理学はこの古典的な世界観を揺さぶっている。量子力学は、ミクロの世界に本質的な確率性が存在することを示している。ラプラスの悪魔は、少なくとも文字通りの意味では、実現不可能だろう。

だが、ここで立ち止まって考えてみてほしい。仮に量子力学的な不確定性が存在するとして、それはあなたに自由を与えるだろうか。あなたの意志決定が量子的なゆらぎの産物だとしたら、それは「自由意志」というより、ただの別種の偶然にすぎないのではないか。

決定論が正しければ、あなたに自由はない。決定論が間違っていれば、あなたの行動は偶然に委ねられている。どちらに転んでも、「自分の意志で選んだ」という感覚の居場所が見つからない。(この袋小路をさらに歩いた記録が「誰も何も選んでいない」だ。脳科学から社会設計まで、自由意志の逃げ場をひとつずつ塞いでいる。)

沈んだ船の乗客は語らない

現実社会ではどうだろうか。

「運が良い」とは何だろう。

成功した人の話を聞くと、そこには必ず物語がある。努力、転機、決断。インタビュー記事は、いつも整然としている。読者はそれに触発され、自分もそうすればうまくいくかもしれないと思う。

だが、ここには致命的な見落としがある。

生存バイアス(survivorship bias)と呼ばれる認知の歪みだ。私たちが耳にするのは、生き残った者の声だけだ。同じように努力し、似たような決断をし、同程度の能力を持ちながら、たまたま運に恵まれなかった無数の人々は、語る場を与えられない。

有名な逸話がある。第二次世界大戦中、統計学者エイブラハム・ウォールドは帰還した爆撃機の被弾箇所を分析するよう求められた。軍の直感は、弾痕の多い箇所を補強することだった。ウォールドはその逆を提案した。帰ってきた機体に弾痕がない箇所こそ、そこを撃たれた機体は帰還できなかったのだから、補強すべきだ、と。

沈んだ船の乗客は、自分の物語を語れない。

同じ能力を持った二人がいて、片方だけが成功したとき、その差を本人の功績だと言い切れるだろうか。タイミング、出会い、健康、生まれた場所と時代。コントロールできない変数が結果を左右しているなら、「成功は自分で勝ち取った」という信念もまた、一種の生存バイアスかもしれない。(同じ構造は苦しみの解釈にも現れる。「あの経験があったから今がある」という事後的な物語化が正当化なのか合理化なのか、その見分けがつかない問題は「苦しみは何も教えない」で書いた。)

受け入れろ、と彼らは言う

ここまで読んで、少し息苦しくなっただろうか。あるいは、とっくに慣れただろうか。

二千年以上前、ストア哲学者たちはこの息苦しさに一つの処方箋を与えようとした。エピクテトスはこう説いた。私たちがコントロールできるのは自分自身の判断と欲求と忌避だけであり、それ以外のすべて、身体も、財産も、評判も、社会的地位も、自分のものではない、と。

マルクス・アウレリウスは『自省録』にこう記した。「運命があなたに結びつけるものを受け入れよ」。

これは美しい思想だ。コントロールできないものに執着しない。自分にできることに集中する。現代のセルフヘルプにまで脈々と受け継がれているこの教えは、確かに一種の平穏をもたらすだろう。

だが、ここにも問いは残る。

「受け入れよ」と語るとき、それは誰に向かって言っているのか。生まれた場所が違えば、受け入れるべき「運命」の重さはまるで違う。コントロールできないものを手放せという教えは、そもそもコントロールできるものをある程度持っている者にとってのみ、慰めとして機能するのではないか。

そして忘れてはならないことがある。ストア哲学者たち自身が、実は決定論者だった。彼らにとって、世界の歴史は一つの途切れない因果の連鎖であり、すべてはあらかじめ定められていた。その世界観の中で「自分の判断はコントロールできる」と主張することは、本当に整合的だったのだろうか。

受容は答えなのか。それとも、答えがないことに対する、最も洗練された降伏なのか。(自由の重さに耐えかねて、みずから鎖を選ぶ人間の姿は「鎖を愛した動物」で描いた。)

それでもあなたは意味を探す

ここまで考えてきて、何かが明らかになっただろうか。

おそらく、何も。

運命は後から書かれた創作だ。道徳的評価は偶然に左右される。決定論が正しくても正しくなくても、自由意志の居場所は見つからない。成功の物語は沈んだ船を黙殺している。受容の哲学は、答えではなく降伏かもしれない。

それでも、あなたは明日も目を覚ます。コーヒーを淹れ、誰かと言葉を交わし、夜には少し疲れてベッドに入る。そしてその一日に、何かしらの意味を見出すだろう。仮にそれが幻想だとして。幻想を手放した先に何があるのかは、誰も知らない。

人間とは、意味のない宇宙の中で意味を捏造し続けるしかない生き物なのかもしれない。(この捏造の衝動そのものについては「意味という病」で診断を試みた。)そして、そのことに気づいてしまった後でさえ、意味を探さずにはいられないという、その救いようのなさこそが、おそらく私たちのもっとも人間らしい部分だ。

あなたの人生に筋書きはない。

でも、あなたはこの文章を最後まで読んだ。それが「運命」だったのか「偶然」だったのか。その問いに、答えはない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu