誰も何も選んでいない

おめでとう。あなたはこの文章を「自分の意志で」開いた。少なくとも、そう感じている。

ここには答えがない。慰めも、希望も、用意していない。あるのは問いだけだ。その問いのすべてが、あなたの足元を掘り崩す方向を向いている。

読まなければよかったと思うかもしれない。でも安心してほしい。「読む」と決めたのも、あなたではなかったかもしれないのだから。

好みという化石

あなたが好きなものを一つ思い浮かべてほしい。音楽でも食べ物でもいい。

なぜそれが好きなのか。答えようとすると、驚くほど薄い理由しか出てこない。「なんとなく」「昔から」「聴いたら良かった」。どれも説明になっていない。

社会学者ピエール・ブルデューは「ハビトゥス」という概念を提唱した。人の好みや感性は、育った社会的環境のなかで無意識に形成される。クラシック音楽を高尚と感じるか退屈と感じるかは、個人の感性であると同時に、どの文化圏で育ったかの問題でもある。

友人に勧められた音楽をいつの間にか好きになる。繰り返し広告で見たブランドに親しみを覚える。アルゴリズムが選んだ動画を、まるで自分で見つけたかのように楽しむ。

では、環境の影響をすべて差し引いたら何が残るか。親の趣味を引き、友人の影響を引き、広告の刷り込みを引き、アルゴリズムの誘導を引く。引き算を最後まで続けたとき、「純粋にあなた自身の好み」と呼べるものは残るだろうか。

たぶん、残らない。あなたの「好き」は、あなたが生まれ落ちた時代と場所と人間関係の化石だ。発掘しても、そこにあなたの署名は見つからない。

脳はあなたより先に動いている

1983年、神経生理学者ベンジャミン・リベットがある実験結果を発表した。被験者に好きなタイミングで手首を動かしてもらい、「動かそう」と意識した瞬間を報告させながら脳波を測定する。

結果は不穏だった。手首が動く約550ミリ秒前に、脳にはすでに準備電位と呼ばれる電気的活動が現れていた。被験者が「動かそう」と意識したのは動作の約200ミリ秒前。つまり、意識が「決めた」と感じるおよそ350ミリ秒前に、脳はもう動き始めていた。

この実験には多くの批判がある。「意識した瞬間」の報告にタイムラグが含まれるという指摘。準備電位が「決定」の開始を意味するのか、単なる動作準備ではないかという疑問。手首を動かすような単純な動作と人生を左右する判断を同列に論じてよいのかという問題。リベット自身も、意識には脳の準備を「拒否する」力が残されている可能性を認めていた。

それでも、問いの不気味さは消えない。あなたが「自分で決めた」と感じているその感覚が、脳がすでに方向を定めたあとに生じた事後的な追認にすぎないとしたら。

決断しているのか。追認しているだけなのか。

未来は1814年に閉じた

もっと大きな話をしよう。

1814年、ピエール=シモン・ラプラスは『確率の哲学的試論』で思考実験を示した。宇宙のすべての粒子の位置と運動量を知り尽くした知性があるなら、その知性にとって未来は過去と同様に確定している。後に「ラプラスの魔」と呼ばれるこの仮想的知性は、古典力学的決定論の象徴となった。

ラプラスの百年以上前に、スピノザは『エチカ』(1677年)でもっと端的に言い切っていた。人間が自らを自由だと思うのは、自分の行動の原因を知らないからにすぎない、と。

自由意志は無知の別名だ。

サイコロは自由ではない

ここで量子力学が救いの手を差し伸べるように見えるかもしれない。ハイゼンベルクの不確定性原理によれば、粒子の位置と運動量を同時に正確に知ることは原理的に不可能だ。ラプラスの魔の前提は、少なくともミクロのレベルでは崩れた。

だが、崩れた先にあったのは「自由」ではなく「ランダムネス」だ。

サイコロが何の目を出すかは予測できない。しかしサイコロが自由意志で目を「選んだ」とは誰も言わない。不確定であることと自由であることは、まったく別の話だ。決定論の世界では少なくとも行動に原因があった。ランダムな世界では、それすらない。

因果もなく、自由もなく、ただ物事が起きている。

自由の定義を変更しました

哲学者たちは、ここで奇妙な手を打った。

両立論(コンパティビリズム)。決定論が正しくても自由意志は成立しうる、という立場だ。ヒュームは、自由とは「自分の意志に従って行動できること」であり、因果的に決定されているかどうかは問題ではないと論じた。1969年にはハリー・フランクファートが、たとえ他の選択肢がなかったとしても自発的に行為したのであれば責任を負いうる、と論じた。

両立論は現代哲学でもっとも支持者の多い立場のひとつだ。しかし、どこか釈然としない。

あなたは自由です。ただし、自由の定義を変更しました。

これは勝利だろうか。

幻覚としての選択

神経科学者サム・ハリスは2012年の著書『Free Will』でもっと端的に切り込んだ。自由意志は幻想である。

あなたの思考がどこから来るのか、あなた自身にはわからない。ある考えがふと浮かぶ。なぜその考えが浮かんだのか、説明できない。それなのに、その考えを「自分の」ものだと感じ、それに基づく行動を「選んだ」と信じる。

興味深いのは、ハリスがこの認識に楽観的な帰結を見ていることだ。誰かの行為がその人の脳の産物であるなら、怒りよりも理解に向かうことができる、と。

しかし、その「理解に向かおう」という態度もまた、自由意志なしに生じたものではないだろうか。解毒剤が毒と同じ成分でできている。

ロバは正しかった

ここで地上に戻ろう。

50種類のジャムが並ぶ棚の前で立ち尽くしたことはないだろうか。心理学者バリー・シュワルツは、選択肢が増えるほど満足が遠のき後悔が近づくこの現象を「選択のパラドックス」と呼んだ。

中世に生まれた「ビュリダンのロバ」という思考実験がある。完全に等しい距離に置かれた二つの干し草の山のあいだで、ロバがどちらにも動けず餓死する。名前の由来は14世紀の哲学者ジャン・ビュリダンだが、彼の著作にこの寓話は登場しない。類似の議論はアリストテレスにまで遡る。

私たちはロバを笑う。どちらでもいいから選べばいいのに、と。しかし、等しい選択肢の前で「どちらでもいいから」と選ぶとき、そこにあるのは合理的判断ではない。ただの恣意だ。ロバは、その事実に正直だっただけかもしれない。このロバの沈黙が語ることについては「何でもよかった、あるいは何もよくなかった」で別の角度から書いた。

自由という名の判決

ジャン=ポール・サルトルは1946年の講演『実存主義はヒューマニズムである』で述べた。「人間は自由の刑に処せられている(L'homme est condamné à être libre)」。

人間にはあらかじめ決められた目的がない。自分が何者であるかは、自分の選択によって事後的に決まる。そして、その責任から逃れる術はない。選ばないことすら、ひとつの選択だからだ。そしてそもそも、この舞台に上がることを誰にも頼まれていない

サルトルより約一世紀前、セーレン・キェルケゴールは1844年の『不安の概念』で不安を「自由の眩暈」として描いた。崖の縁に立ったとき、落ちることへの恐怖とは別に、自分が飛び降りることもできるという可能性そのものが引き起こす眩暈。

選択肢とは、可能性であると同時に深淵だ。私たちは毎日その縁に立っている。落ちてはいけないと知りながら、落ちることができるという事実に、ただ怯えている。

決めないでいるという嘘

「まだ決めなくていい」。「もう少し考えよう」。

マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、人間の本来的な在り方を「決意性(Entschlossenheit)」として描いた。自分の有限性を引き受け、死に向かう存在であることから目を逸らさず、自らの可能性に向かって決断すること。流されること、「みんながそうしているから」で済ませることは、ハイデガーの言葉で言えば「非本来的」な在り方だ。世間(das Man)のなかに埋没し、自分自身であることから目を背けている。しかし、その埋没をむしろ望んでいるのだとしたら。鎖を愛した動物のように。

だが、毎日のあらゆる選択に決意を込めて生きる人間がいたとしたら、三日ともたない。日常の大半は惰性と習慣で成り立っている。それは怠惰ではなく生存の知恵だ。すべてに意味を込めていたら、朝食のメニューすら決められない。

決めないことの重さを知ることと、すべてを決めなければならないという強迫は、まったく別のものだ。その境界がどこにあるのか、誰も教えてくれない。

欲しいと思わされている

ここまでは、選ぶ主体の話だった。ここからは、選ばせる側の話をする。

1964年、哲学者ヘルベルト・マルクーゼは『一次元的人間』で、先進産業社会が人々に「偽りの欲求(false needs)」を植えつけていると論じた。偽りの欲求とは、個人の抑圧のために外から押しつけられる欲求だ。広告に従って消費し、みんなが愛するものを愛し、みんなが憎むものを憎む。こうした欲求の充足は、自由と自己決定への本来の欲求を犠牲にして成り立っている。

マルクーゼが「欲しい」と「必要」を区別しているわけではない。彼が指摘するのは、満たせば満たすほど自分を損なう欲求が、社会の構造のなかに組み込まれているという事実だ。

あなたが最後に買ったもの。それは「欲しかった」のだろうか。それとも、欲しいという気持ちそのものが、どこか別の場所で書かれた脚本に従っていただけだろうか。

頼んだ覚えのない同意

1988年、エドワード・S・ハーマンとノーム・チョムスキーは『マニュファクチャリング・コンセント』で、マスメディアが世論を構造的に方向づける仕組みを分析した。

彼らの「プロパガンダ・モデル」は陰謀論ではない。むしろその逆だ。密室の談合がなくても、メディアの所有構造、広告収入への依存、情報源の偏り、批判への圧力、支配的なイデオロギーといった構造的フィルターが重なれば、報道される現実はすでに選別されている。意図的に嘘をつく必要はない。真実の一部だけを見せれば、それで十分だ。

あなたはニュースを読んで「自分で」考える。記事を比較して「自分で」判断する。しかし、比較のための選択肢そのものが、あなたの知らないところで選別されているとしたら。

善意で設計された落とし穴

2008年、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンは『ナッジ』で「リバタリアン・パターナリズム」を打ち出した。選択の自由を奪わずに、人々がより「よい」選択をするよう環境を設計する。

たとえば臓器提供の意思表示。オプトイン(自ら登録)かオプトアウト(何もしなければ自動登録)かで、登録率は劇的に変わる。人間は面倒を嫌い、デフォルトに留まる。この性質を利用して「よい方向」へ誘導する。

なお、セイラーとサンスティーンは2021年の改訂版で、臓器提供について支持するのは「推定同意(オプトアウト)」ではなく全員に意思表示を求める「義務的選択(mandated choice)」だと明確にしている。よく引用されるこの事例は、広く誤解されている。

ナッジは選択肢を奪わない。自由を制限しない。ただ、「何もしなかったときの結果」を設計する。それだけだ。

それだけなのに。「何もしない」という選択すら、誰かの設計のなかにあるとしたら。

最初の設計者

あなたの価値観はいつ形成されたか。

幼少期に繰り返し聞かされた言葉。良いとされた振る舞い。罰せられた態度。それらの蓄積が、いまの「判断基準」をつくっている。

教育と洗脳の違いは何か。教育は批判的思考を育て、洗脳は批判を封じる。よく言われる区別だ。けれど、何を「批判的思考」と呼び何を「偏った思想」と呼ぶかの基準そのものが、教育によって植えつけられたものだとしたら、この区別はそれほど安定していない。

あなたの「常識」は、あなたが検証して選び取ったものではない。気づいたときにはすでにそこにあった。それを疑うための道具すら、同じ体系のなかから渡されたものだ。

あなたの意見はアルゴリズムの出力である

SNSのタイムラインは、あなたが見たいものを見せているのではない。あなたが見ると予測されたものを見せている。

この違いは決定的だ。アルゴリズムは過去の行動をもとに「あなた」のモデルをつくり、そのモデルにとって最も反応を引き出せるコンテンツを選ぶ。あなたの「関心」は、過去の反応パターンから機械が推定した関心でしかない。

フィードバックループがこれを加速する。反応すればモデルが強化され、似たものがさらに表示される。興味は先鋭化し、視野は狭まり、自分がとても自由に情報を選んでいるという錯覚のなかで、鎖のない牢獄の内側を歩くことになる。

ハーマンとチョムスキーが描いたフィルターは、人間が運営する組織のものだった。いま、そのフィルターは自動化されている。あなたの神経系に直接接続されている。

成長という侵食

嫌いだったものを好きになったことがあるだろう。子どものころ食べられなかったもの。10代で馬鹿にしていた音楽。かつて軽蔑していた生き方。

その変化を、人は「成長」と呼ぶ。しかし、逆から見れば、かつて確かに持っていた感覚、はっきりとした拒絶が溶かされて消えた、ということでもある。成長なのか。順応なのか。輪郭がすり減っただけではないのか。

「自分を変えたい」。ごく普通の願望だ。しかし、変わりたいと思っている主体は、変化の前の自分だ。変化に成功すると、変わりたいと思っていたあの切実さは消える。ダイエットに成功した人間がダイエット前の危機感を忘れるように。変化を望んだ自分は、変化の完了とともに蒸発する。そもそも「自分」という連続体が最初からいなかったのかもしれないのだから。

欲望は充足と同時に消滅し、充足の意味を理解できるのは、もう充足を必要としていない人間だけだ。

選ばなかった道の亡霊

人生には、選ばなかった道がある。

厄介なのは、選ばなかった道が常に美しく見えることだ。何が起きたかは永遠にわからないのに、想像のなかでは都合よく輝く。現実はいつも傷だらけで、期待どおりにはいかない。比較すれば、現実は必ず負ける。

後悔とは、存在しない自分との比較だ。存在しないものとの比較には、終わりがない。過去の分岐点に手を伸ばしても、届かない一言は届いた瞬間に差出人ごと消える。

「どちらを選んでも正解だよ」と言われることがある。温かい言葉だ。だが、「どちらを選んでも正解」が意味するのは何だろう。大差がないということか。選んだ方を正解にする力があなたにはある、ということか。前者なら選択に意味がなく、後者ならすべてが自己責任だ。

正解があるなら、それは選択ではなく計算だ。選択が選択であるためには、正解がないことが条件だ。私たちは、どう選んでも間違う不正解のなかを歩き続けるしかない。

努力の根拠が消える

もし自由意志がないなら、努力に意味はあるのか。

「頑張った」と「怠けた」の区別がなくなる。どちらも因果の帰結であり、そうなるように決まっていただけだとしたら、努力という概念が崩壊する。成功した人は成功するように決定されていた。失敗した人も同じだ。

社会はこの考えに耐えられるだろうか。「もっと頑張れ」は、何に向かって発せられているのか。誰のせいでもないのだとしたら。

自由意志がないなら、刑罰の正当性はどこにあるのか。「悪い選択をした」人間を罰することは、「そうするしかなかった」人間を罰することだ。もし誰のせいでもないのなら、誰を赦すのか。赦す主体すら自由でないのなら、赦しとは何なのか。あるいは、赦せないまま死ぬことだけが確定しているのか。

気づいたところで

ここまで読んで、ひとつの希望に手を伸ばしたくなるかもしれない。「問題は、気づかずに影響を受けることだ」と。

けれど、気づいたとして、影響を「外す」ことができるのか。偽りの欲求に気づいても広告には反応するし、アルゴリズムを知っても推薦されたコンテンツに心は動く。認知と制御はまったく別の能力だ。仕組みを知ることと、仕組みから自由になることのあいだには、飛び越えられない溝がある。

そしてもしかすると、「気づくこと」すらも設計されているのかもしれない。「自分は操作されていない」と思わせるために、ちょうどいい量の「気づき」が許容されているのだとしたら。

仮にすべてが決まっていたとして、なぜ私たちは「選んでいる」と感じるのか。進化がこの感覚を残したなら、何かしらの適応的価値があったはずだ。しかし、幻想が有用であることと、幻想が正しいことは、まったく別の話だ。

この文章もまた

この文章は、あなたに問いを突きつけるために書かれた装置だ。確信を揺さぶり、足場を崩し、不安のなかに置き去りにすることを目的としている。ここに書かれたすべてが、一種のナッジであり、一種のフィルターであり、一種の設計だ。

「考えさせられた」と感じているとしたら、それはあなた自身の知的誠実さなのか、文章が生成した反応なのか。区別する方法は、ない。

あなたが自由かどうかを確かめる手段があるとすれば、「自分は自由だ」という確信が揺らいだとき、その揺らぎすら疑えるかどうかにかかっている。

けれど、そこまで疑ったところで。残るものが何かあるだろうか。

たぶん、何もない。そして明日も、あなたはコーヒーか紅茶かを「選ぶ」。それが因果の帰結でも幻想でも、そうする以外にどうしようもない。

それを「生きている」と呼ぶのか、ただ「起きている」と呼ぶのか。

その問いに答えられる人間は、まだどこにもいない。

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暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

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何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu