退屈な今を生きる

明日のための今日

「今を生きろ」と誰かが言う。SNSにも自己啓発の本にも、同じ言葉がいたるところに転がっている。今日を大切にしろ。先延ばしにするな。一度きりの人生だろう。

ただ、よく聞いてみると、その理由はいつも明日に接続されている。今日の行動が未来を作る。後悔しないために今を無駄にするな。チャレンジすれば奇跡が起きる。つまり「今を生きろ」の看板の裏には「そのほうが結局うまくいくから」という計算がぴったり貼りついている。それは今を生きているのではなく、今を明日の原料として消費しているだけだ。

ホラティウスの "carpe diem" はもともと「今日という日を摘め」という意味だが、続く句 "quam minimum credula postero" は「明日をできるだけ信じるな」であって、「明日のために今日がんばれ」ではない。明日を計算に入れること自体を退けている。現代の自己啓発が借用する "carpe diem" は、原典とほぼ逆の意味で流通している。

マルクス・アウレリウスは『自省録』のなかで繰り返し「今この瞬間に集中せよ」と書いた。ただし彼にとっての「今」は、宇宙の秩序(ロゴス)に従って理性を働かせる場であって、それ自体が目的ではなかった。仏教の「今ここ」もまた、時間の問題というよりは執着から離れるための実践として語られる。「今を生きる」という表現は、もともと多義的であり、現代の用法はそのほとんどを切り捨てている。

では、今の価値は今そのものに内在する、と言い切ってしまったらどうなるか。明日が来ようが来るまいが、今を大切に生きることの意味は変わらない。そう考えることはできる。ただし、そこから先がむずかしい。「今を大切にする」とは具体的に何をすることなのか。未来への有用性を基準にできないなら、何をもって「大切にしている」と測れるのか。

おそらくそれは、経験の密度の問題だ。同じ一時間でも、何かに深く関わっている一時間と、ぼんやり流れていく一時間では、「現在」の厚みが違う。昼まで眠っていることが「大切にしていない」と感じられるとすれば、それは明日に悪いからではなくて、その時間のなかに自分がほとんどいないからだろう。意識が薄い。経験が希薄。そこには「今」がほとんど存在していない。

だが、経験の密度を高めるには準備がいる。楽器を弾くには練習が要り、文章を書くには読む蓄積が要る。それは未来への投資に見えるが、練習そのものが密な現在であり得る以上、循環ではあっても矛盾ではないのかもしれない。

結局、「今を大切に生きる」とは何かに、きれいな答えは出ない。ただ、少なくとも「今日がんばれば明日はもっとよくなる」ではないことだけは確からしい。

死ぬ五分前にそれがわかったとして、あなたはその五分間をどう過ごすだろう。そしてそれは、今この瞬間と何が違うのだろう。

さて、今を大切にしようとじっと座っていると、別の問題がやってくる。何もすることがない。退屈だ。


退屈に底はない

退屈は無害な感情のように思われている。暇だ、つまらない、やることがない。ただそれだけのこと。

ブレーズ・パスカルはそう思わなかった。『パンセ』(遺稿、1670年出版)のなかで彼はこう書いている。「人間の不幸はすべて、部屋のなかにじっと座っていられないことから生じる」。人は静寂に耐えられず、気晴らし(divertissement)に走り続ける。賭け事、社交、仕事、戦争。何でもいい、とにかく自分を忙しくしていないと、自分自身の空虚に向き合わなければならなくなる。パスカルが退屈の奥に見ていたのは、存在そのものの空洞だった。

ハイデガーはさらに踏み込んだ。『形而上学の根本概念』(1929年から30年にかけての講義録)のなかで、彼は退屈を三つの段階に分けている。第一に、何かによって退屈させられること。電車を待つ時間、長すぎる会議。第二に、何かに際して退屈すること。パーティに行ったのにどこか楽しくない、あの漠然とした感覚。そして第三に、深い退屈(tiefe Langeweile)。これには特定の対象がない。世界全体が空虚に感じられる。ハイデガーはこの最も深い退屈を、存在の根本的な気分(Grundstimmung)のひとつとして重視した。

現代の生活は、退屈を許さない設計になっている。スマートフォン、SNS、ストリーミング。三秒の空白があればスクリーンに手が伸びる。パスカルの「気晴らし」は、テクノロジーによってかつてないほど効率化された。退屈を感じる暇すらない。

だが、退屈がただの不快なら、それを避け続けることに問題はないはずだ。問題があるとすれば、退屈のなかに何かが潜んでいるからだ。何もすることがない時間にこそ、はじめて「なぜ自分は存在しているのか」という問いが浮かぶ。退屈が思考の入口だとしたら、その入口を塞ぎ続ける生活は、何かを失っている。何を失っているかすらわからないまま。

最後に本気で退屈だったのはいつだろう。本当は暇が怖いだけなのかもしれない。スマートフォンなしで一時間を過ごせるだろうか。退屈を完全に追い出した人生は、理想的だろうか。それとも、何かがこっそり抜け落ちた人生だろうか。

退屈に耐えて座り続けると、やがて見えてくるものがある。毎日同じことを繰り返しているという気づき。何も起きなかった日が、静かに積み重なっていく。朝起きて、何かをして、夜眠る。また起きる。また何かをする。また眠る。これが続く。永遠に。


石はまた落ちる

シーシュポスはギリシャ神話の人物で、神々を出し抜いた罰として、巨大な岩を山頂まで押し上げる刑に処された。岩は頂上に着くたびに転がり落ちる。シーシュポスはまた山を下り、ふたたび岩を押し始める。永遠に。

アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』(1942年)で、この刑罰を人間の条件そのものの隠喩として読んだ。冒頭の一文は有名だ。「真に深刻な哲学的問題はひとつしかない。それは自殺である」。

カミュのいう「不条理」(l'absurde)とは、意味を求める人間と、意味を返さない世界との衝突から生まれるものだ。不条理は人間の側にあるのでも世界の側にあるのでもなく、両者の関係のなかにある。宇宙に意味を問いかけても、宇宙は沈黙している。その沈黙と問いかけのあいだに、不条理が立ち上がる。

この不条理に対して、カミュは三つの態度を検討する。ひとつは自殺。問いごと存在を消す。ふたつめは信仰への跳躍。超越的な意味にすがることで不条理を解消する。みっつめは、不条理を受け入れたまま生き続けること。カミュはこの三つめを選ぶ。

「頂上にむかう闘争そのものが、人の心を満たすに足りる。シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。

ここで注意しておきたいのは、カミュは自身を実存主義者とは見なしていなかったということだ。彼の立場はあくまで「不条理の哲学」であり、サルトルの実存主義とは区別される。両者は後に決裂した。

不条理の哲学には逆説的な解放がある。宇宙が意味を提供しないなら、何をしてもいいし、何をしなくてもいい。ただし、これを「だから好きなように生きよう」と前向きに読むのは、カミュの意図からは外れる。不条理は解決されない緊張として持ちこたえるべきものであって、乗り越えるべきものではない。

毎日同じ時間に起き、同じ仕事に行き、同じ道を歩いて帰る。それはシーシュポスの岩と何が違うのだろう。岩はまた転がり落ちる。いつも。そして、もし違いがないとして、それでも幸福であると「想像しなければならない」のだろうか。

「意味がなくてもやる」と「意味がないからやらない」の間に、論理的な差はあるのだろうか。もし人生に意味があると証明されたら、嬉しいだろうか。それとも、少しがっかりするだろうか。

岩を転がすことが人間の条件の隠喩だとすれば、その最も身近な姿はおそらく労働だろう。


誰も自分の仕事を信じていない

カール・マルクスは『経済学・哲学草稿』(1844年に執筆、生前未公刊)のなかで「疎外」(Entfremdung)の概念を展開した。マルクスによれば、疎外は四つの次元を持つ。労働者は自分の生産物から疎外され、労働の過程そのものから疎外され、自分自身の本質(マルクスはこれを「類的存在」Gattungswesen と呼んだ)から疎外され、他の人間から疎外される。労働が自己実現ではなく生存のための手段になるとき、人間は自分自身から切り離される。

マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年から1905年にかけて発表)で、別の角度からこの問題に光を当てた。勤勉に働くことが宗教的義務であったプロテスタントの倫理が、近代資本主義の精神的基盤になった。しかし宗教的な意味づけが薄れたあとも、「働かなければならない」という感覚だけが骨格として残っている。根拠を失った義務感。ヴェーバー自身、これを「鉄の檻」(stahlhartes Gehäuse)と呼んだ。

デヴィッド・グレーバーは『ブルシット・ジョブ』(2018年)で、さらに挑発的な指摘をした。本人ですら無意味だと感じている仕事が世の中には大量に存在する。しかもしばしば、社会的に不可欠な仕事ほど報酬が低く、なくても誰も困らない仕事ほど給与が高い、という逆説がある。

「働かないと生きていけない」は多くの場合、事実だろう。しかし「働くことに意味がある」は事実ではなく信念かもしれない。もし一生分のお金があったとして、あなたは明日も仕事に行くだろうか。行くとしたら、なぜ。行かないとしたら、今日の仕事の意味は何だったのか。お金がなくなっても何も解決しないと気づくだけかもしれない。

何もしない一日を過ごして罪悪感を覚える。あの感覚はどこから来るのだろう。そしてそもそも、なぜこの仕事を選んだのか。いや、本当に「選んだ」と言えるのだろうか。


選ばなかった人生

仕事を選び、住む場所を選び、何を食べるかを選ぶ。一日は選択の連続だ。そしてすべての選択は、選ばなかった無数の可能性を静かに消している。

セーレン・キルケゴールは『不安の概念』(1844年)のなかで、不安(Angst)を「自由の目眩」と表現した。選択肢があるということ自体が人間を不安にさせる。何を選んでもよいということは、何を選ぶかの責任がすべて自分にあるということだ。

ジャン=ポール・サルトルはこの議論をさらに推し進めた。「実存は本質に先立つ」(1946年の講演『実存主義はヒューマニズムである』に基づく)。人間はあらかじめ何であるかを決められていない。自分で選び、自分を作っていく。ただしその自由は祝福であると同時に重荷でもある。自由から逃げようとすること、つまり役割や状況のせいにして自分が選んでいるという事実から目をそらすことを、サルトルは「自己欺瞞」(mauvaise foi)と呼んだ。もっとも、誰も何も選んでいないのだとしたら、自己欺瞞すら成り立たないが。

ロバート・フロストの詩「選ばれなかった道」("The Road Not Taken", 1916年)は、しばしば「人と違う道を選ぶ勇気」の詩として読まれる。だがフロスト自身の意図はもっと皮肉なものだった。詩のなかで、ふたつの道は実際にはほとんど同じように見えている。人はあとから「自分は人が行かない道を選んだのだ」と意味づけるだけだ、という話だ。

選択肢が増えるほど幸福になるかといえば、必ずしもそうではないらしい。心理学者バリー・シュワルツが著書『選択のパラドックス』(The Paradox of Choice, 2004年)で指摘したように、選択肢が多いほど選択後の満足度は下がる傾向がある。もっとよい選択肢を逃したかもしれないという感覚が、常につきまとう。

「もしあのとき違う選択をしていたら」。これはおそらく人類に共通する思考パターンだ。しかし選ばなかった人生は存在しない。存在しないものについて後悔することは、可能なのだろうか。

「正しい選択」なんてものは存在するのだろうか。選択肢がゼロだったら、人間は自由だろうか、それとも不自由だろうか。

選ばなかった人生は存在しない。では、選んだこの人生を、もう一度最初からまったく同じように繰り返せと言われたら。


同じ朝が永遠に来る

ある日、悪魔がやって来て囁く。おまえがいま生きているこの人生を、一瞬の違いもなく、もう一度、そして永遠に繰り返さなければならないとしたらどうか。

フリードリヒ・ニーチェは『悦ばしき知識』(1882年)第341節で、この思考実験を提示した。「永劫回帰」(ewige Wiederkehr des Gleichen)と呼ばれるこの着想を、ニーチェは宇宙論的な事実として主張したのではなく(少なくとも主要な解釈ではそうだ)、人生に対する態度のテストとして差し出した。この人生をそのまま無限に繰り返してもよいと思えるほど、今を肯定できているかどうか。

永劫回帰は「人生の意味」の問いを裏返す。意味があるから肯定するのではない。肯定できるかどうかそのものが問われている。意味の有無よりも先に、態度の問題がある。

カミュの不条理と並べると、違いが際立つ。カミュは「意味がなくても生きよ」と言う。ニーチェは「この無意味を永遠に繰り返せるか」と問う。カミュが不条理を持ちこたえることを求めるのに対し、ニーチェは肯定することを求める。要求の強度が違う。

今日という一日を、永遠に繰り返してもいいか。「いいよ」と答えられる日が、たぶんいい一日なのだろう。

人生で一番幸せだった日を永遠に繰り返すのは、天国だろうか、地獄だろうか。「この人生でよかった」と心の底から思えたことが、一度でもあるだろうか。もう一度、最初からやり直したいと思ったことは。ニーチェの悪魔に「はい」と答えられる人間は、果たして存在するのだろうか。

永遠に繰り返す話をしていると、どうしても避けて通れない主題が姿を現す。繰り返さないもの。終わるもの。死だ。


死は何でもない

エピクロスは言った。「死はわれわれにとって何でもない」。

この主張には論証がある。エピクロスの書簡(『メノイケウス宛の手紙』に記録されている)によれば、善悪はすべて感覚を前提とする。死は感覚の剥奪である。したがって死は善でも悪でもない。「死があるとき、われわれはなく、われわれがあるとき、死はない」。死と生は決して出会わない。だから死を恐れる理由はない、と。

ルクレティウスは『事物の本性について』のなかで、これを補強する論証を展開した。われわれは生まれる前の非存在を恐れない。死後の非存在も構造的に同じものだ。なぜ片方だけを恐れるのか。これは「対称性論証」と呼ばれる。

これに対する有力な反論が「剥奪説」(deprivation account)だ。死が悪いのは、死それ自体が苦痛をもたらすからではなく、生きていれば享受できたはずの善、つまり経験、関係、可能性が奪われるからだという議論である。非存在そのものが悪いのではなく、存在し続けていれば得られたものの喪失が悪い。

対称性論証にも反論がある。生前の非存在と死後の非存在は、実は構造的に対称ではないかもしれない。生前の非存在には「これから存在が始まる」という方向性があるが、死後の非存在にはそれがない。失われるものの有無が、両者を非対称にしている。

ハイデガーは『存在と時間』(1927年)で、まったく異なるアプローチをとった。「死への存在」(Sein zum Tode)において、ハイデガーは死を遠ざけるのではなく、自分自身の死の可能性を引き受けることで、はじめて本来的な(eigentlich)生き方が可能になると論じた。死を直視することが、日常的な惰性から自分を引き戻す。

本当に怖いのは「死」それ自体だろうか。あるいは、死にゆく過程のほうだろうか。もう二度と何もできないという想像だろうか。自分がいなくなっても世界がそのまま何事もなく続いていくという事実のほうだろうか。どうせ死ぬ。それだけが確かだ。

全身麻酔を受けるとき、少し怖くないだろうか。意識が途切れるということ。もし死がそれと同じだとしたら。いや、麻酔には目覚めがある。死にはない。その差はすべてだろうか。それとも何でもないことだろうか。

死を考えていると、不思議と記憶のことを考えはじめる。死が意識の終わりなら、記憶も終わる。でもそもそも、記憶とは何だろう。


忘れたほうが幸せだ

ニーチェは『反時代的考察』第二篇「生に対する歴史の利害について」(1874年)で、牧草地で草を食む牛を見つめながら考えた。牛は過去を忘れて生きている。人間は過去を背負って生きている。忘れることができないのは人間の特権であり、同時に呪いでもある。ニーチェは、ある程度の忘却がなければ行動も幸福も不可能だと論じた。

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「記憶の人、フネス」(1942年)は、すべてを完璧に記憶する男の物語だ。フネスは何ひとつ忘れることができない。落馬事故のあとに得た完全記憶は、同時に一般化と抽象化の能力を麻痺させた。犬を横から見た姿と正面から見た姿が「同じもの」だと理解できない。あらゆる知覚が個別的で、あらゆる瞬間が等しく鮮明で、何も整理できない。完全な記憶は、思考を不可能にする。

忘却には治癒の力がある。嫌な記憶が時間とともに薄れるのは、心の自然な防衛だ。もしすべてを鮮明に覚えていたら、生きていくのはずっとつらいだろう。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の苦しみは、忘れたい記憶が忘れられないという苦しみでもある。もし記憶を選択的に消去する技術が実現したら、それは治療だろうか、アイデンティティの改変だろうか。

デジタルの世界は忘却を許さない。EU一般データ保護規則(GDPR)が「忘れられる権利」を法的に認めたのは、インターネットがすべてを記録し続ける世界への応答だった。人間の記憶は自然に薄れるが、デジタルの記録は命令しなければ消えない。

もし特定の記憶をひとつだけ消せるとしたら、消すだろうか。忘れられるとしても、忘れてしまった出来事は自分の人生に含まれるのだろうか。完璧な記憶は祝福だろうか、呪いだろうか。

そして、もし記憶こそが自分を自分たらしめているのだとしたら、忘却は自分を壊すことだろうか。それとも、解放だろうか。


昨日の自分はもういない

テセウスの船という古典的な思考実験がある。プルタルコスの『テセウスの生涯』に由来するこの問いは単純だ。船の部品をひとつずつ交換していき、すべて交換し終えたとき、それは元の船と同じ船か。

人間の身体も細胞の入れ替わりを繰り返す。十年前の自分と今の自分は、物質的にはほとんど別の存在だ。それでも「同じ自分」だと思っているのはなぜか。

ジョン・ロックは『人間知性論』(1689年)で、人格の同一性は記憶の連続性によって成り立つと論じた。昨日の自分を覚えているから、自分は昨日の自分と同じ人間だと言える。

だが、この説にはすぐに反論がついた。トマス・リードの「勇敢な士官のパラドックス」と呼ばれる議論がある。老将校は青年時代の自分を覚えている。青年は少年時代の自分を覚えている。しかし老将校は少年時代のことを覚えていない。記憶の連続性は推移的ではない。老将校と少年は「同じ人物」なのか。

デレク・パーフィットは『理由と人格』(1984年)でさらにラディカルな議論を展開した。人格の同一性は、われわれが思っているほど重要ではない。重要なのは心理的な連続性とつながりであって、厳密に「同一の自分」が存在することではない。パーフィットの有名なテレポーテーションの思考実験がある。地球であなたの身体が分解され、火星で原子レベルまで正確に再構成される。再構成された存在は元の人物と同じ記憶と性格を持つ。これは「あなた」だろうか。

パーフィットの結論は意外なほど解放的だ。「自分」への執着を手放すことができるなら、死への恐怖も利己心もある程度は和らぐかもしれない。

五年前の日記を読んで、「これは本当に自分が書いたのか」と思ったことはないだろうか。あの時の自分と今の自分は同じ人間だろうか。名前と身体がたまたま同じだから、同じ人間だと思い込んでいるだけではないか。どこが私なのだろう。

寝て起きたら、昨日の自分の記憶を完全に引き継いだ別の存在がそこにいるだけかもしれない。この可能性を、論理的に否定することはできない。

自分が自分であるかどうかさえ怪しいなら、経験が「本物」であるかどうかなんて、なおさらどうでもいいのかもしれない。


偽物の幸せで構わない

ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)で「経験機械」(experience machine)という思考実験を提示した。あなたが望むどんな経験でも、現実と区別がつかないほど完璧に提供してくれる機械がある。接続すれば、主観的には世界中を旅し、すばらしい仕事をし、深い人間関係を築いている。ただし実際には水槽のなかで電気信号を受け取っているだけだ。接続するか。

ノージックの論点は明快だった。ほとんどの人は接続を拒否するだろう。それは、人間が主観的な快だけでなく、実際に何かをすること(doing)、ある種の人間であること(being)、現実との接触(contact with reality)を価値として持っていることを示す。経験機械は快楽主義(hedonism)に対する反証として提示された。ノージック自身の言葉を借りれば、接続することは「幸福という自殺」にほかならない。

ただし、近年の実験哲学(experimental philosophy)の研究では、この直観的な反応は想定ほど明確ではないことが指摘されている。回答には現状維持バイアス(status quo bias)が影響している可能性がある。「接続しない」と答えるのは、快以外を重視しているからではなく、ただ現状を変えたくないだけかもしれない。すでに経験機械のなかにいると知った場合に「出るか」と問い直すと、回答の分布が変わるという研究もある。

現代の文脈ではこの問いの切実さが増す。SNSに並ぶ「充実した生活」は経験機械の外部版のようなものだし、自分自身の記憶でさえ時間とともに脚色される。「本物の経験」の輪郭はもともとそれほど鮮明ではない。映画『マトリックス』(1999年)の赤い薬と青い薬の選択は、この問いを大衆文化に刻み込んだ。

今の記憶がすべて五分前に植えつけられたものだとしたら、それは問題だろうか。完璧なVRのなかで一生を過ごすのと、不完全な現実で一生を過ごすのと、何が違うだろう。

「本物」とは何か。経験の本物性は、経験の外側にある基準でしか測れないのだろうか。内側から見て区別がつかないなら、その区別にはそもそも意味があるのだろうか。

偽物か本物かという問いの奥には、もっと根本的な問題がある。あなたが見ているもの自体が、他の誰かの見ているものと同じかどうかすら、実はわからない。


あなたの赤は赤ではない

他の人が「赤」と呼ぶものを見るとき、あなたの主観的経験と同じことが相手にも起きている保証はどこにもない。あなたの「赤」は、他の誰かにとっては「青」の感覚かもしれない。ただし行動や言語のうえでは区別がつかない。ふたりとも消防車を指して「赤い」と言い、信号を見て止まる。違うのは、あるいは同じなのは、「赤を見ている感じ」そのものだ。この可能性を排除する方法は存在しない。

この「感じ」のことを、哲学ではクオリア(qualia)と呼ぶ。意識的経験の主観的な質のことだ。赤の「赤さ」、痛みの「痛さ」、コーヒーの味の「あの感じ」。物理的には同じ情報処理が起きていても、それを経験する「感じ」が同じかどうかは原理的に確認できない。これは「逆転クオリア」の思考実験として知られている。

トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、この問題を鮮やかに描いた。コウモリは超音波の反射で世界を知覚している。その経験が「どのようなもの」であるかを、人間は想像することすらできない。意識には、外から記述しつくせない主観的な性格がある。

デイヴィッド・チャーマーズは1995年の論文で「意識のハードプロブレム」を提唱した。脳の情報処理のメカニズムを完全に解明しても、「なぜそこに主観的経験が伴うのか」という問いは残る。どのニューロンがどう発火するかは説明できるかもしれない。しかし、なぜその発火に「感じ」がついてくるのかは、まったく別種の問題だ。チャーマーズは前者を「イージープロブレム」、後者を「ハードプロブレム」と呼び分けた。

関連する思考実験として「哲学的ゾンビ」(philosophical zombie)がある。外見も行動も脳の物理的状態もあなたとまったく同じだが、内的な意識経験がまったくない存在だ。もしこのような存在が論理的に可能であるなら、意識は物理的状態には還元できないことになる。

AIが言葉を生成し、文脈を理解し、会話を成立させるとき、そこに「何かを経験している感じ」はあるのだろうか。ないとしたら、なぜわれわれにはあるのか。あるとしたら、どうやってそれを確かめるのか。

青空を見上げて「きれいだ」と感じるとき、その感覚を言葉で他の誰かにそのまま伝えることは可能だろうか。たぶん、できない。あなたには何も見えていない。自分の意識のなかで何が起きているかさえ完全には言葉にできないのなら、他人の意識の中身は、なおさら永遠に届かない。


他人の痛みはわからない

自分に意識があることは直接知っている。しかし、目の前の人間に自分と同じような意識があることを証明する方法は存在しない。行動から推測し、表情から読み取り、言葉を解釈しているだけだ。

哲学ではこれを「他我問題」(problem of other minds)と呼ぶ。この問題を極限まで押し進めると、独我論(solipsism)に行き着く。存在が確実なのは自分の意識だけであり、他のすべて、他者も外界も、自分の意識が構成した像にすぎないかもしれないという立場だ。真面目に主張する哲学者はほとんどいないが、論理的に反駁するのは驚くほどむずかしい。

共感(empathy)は他者の経験を「想像する」能力であって、「共有する」能力ではない。どれほど深く共感しても、それは自分の側で組み立てた像にすぎない。相手が実際に何を感じているかは、やはりわからない。

災害や戦争のニュースがタイムラインに流れてくる。遠くの苦しみに対して何かを「感じている」とき、われわれは本当に感じているのだろうか。それとも「感じるべきだ」と思っているだけだろうか。共感疲れ(compassion fatigue)という概念が存在するのは、この問いが実質的な重みを持っている証拠かもしれない。優しい人から壊れる

親しい人でさえ、本当に何を考えているかはわからない。それは孤独なことだろうか。それとも、ただ自然なことだろうか。完全に相手の気持ちがわかったとしたら、それは嬉しいだろうか、それとも怖いだろうか。

痛みを感じている人に「わかるよ」と言う。あれは嘘だろうか、優しさだろうか。

他人の心がわからないなら、せめて言葉で何とか伝えられるだろうか。しかし、言葉にも限界がある。


沈黙の手前

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921年)の最後の命題はこうだ。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」。哲学史上、最も有名な結びのひとつだろう。

ただし、この命題の解釈はひとつではない。「語りえぬもの」は存在しないのではなく、むしろ最も重要なもの、倫理や美や人生の意味がそこに含まれていて、言語が扱おうとすること自体が誤りだという読みが有力だ。沈黙しなければならないのは、それが無意味だからではなく、言語の外にしか現れないからだ。

ヴィトゲンシュタイン自身は後に立場を大きく転換した。後期の主著『哲学探究』(1953年に遺稿として出版)では、言葉の意味を「使用」に求めた。言葉の意味は辞書的な定義ではなく、生活のなかでどう使われるかによって決まる。ヴィトゲンシュタインはこれを「言語ゲーム」と呼んだ。前期と後期で、言語に対する根本的なアプローチが異なっている。

言語相対性仮説(サピア=ウォーフ仮説)は、使用する言語が思考の枠組みに影響を与えるという仮説だ。強い版、つまり言語が思考を決定するという主張はほぼ否定されているが、弱い版、つまり言語が思考に一定の影響を与えるという主張には実証的な支持がある。

翻訳不可能とされる語彙が各言語に存在する。ポルトガル語の "saudade"(もう戻らないものへの憧れと哀しみ)、日本語の「木漏れ日」、デンマーク語の "hygge"。これらが翻訳できないのは、その概念が存在しないからなのか、経験を一語にまとめる文化的な慣習がないだけなのか。もし言語がなければ、その経験自体が異なる形をとるのだろうか。あなたの言葉が届かない場所で、世界はそこで終わっている

ある感情を説明しようとして、どうしてもぴったりの言葉が見つからない瞬間がある。その感情は、言葉にできないから存在しないのだろうか。それとも言語の網目からこぼれ落ちているだけで、確かにそこにあるのだろうか。

言語がなかったら、「自分」という概念は存在しうるだろうか。犬は何を考えているのだろう。言語なしの思考は、どんな形をしているのだろう。

言葉にできるものとできないもの。その境界線のどこかに、道徳もまた立っている。


正しさは存在しない

「殺人は悪い」。ほとんどの人はそう答えるだろう。では、それは証明できるだろうか。

道徳実在論(moral realism)は、道徳的事実は人間の意見とは独立に存在すると主張する。「殺人は悪い」は、太陽が熱いのと同じ意味で「事実」だとする立場だ。道徳反実在論(moral anti-realism)は反対に、道徳的事実は存在しないと主張する。道徳的判断は感情の表出であったり、社会的合意であったり、進化の副産物であったりする。

デイヴィッド・ヒュームは『人間本性論』(1739年から1740年にかけて出版)のなかで、のちに「ヒュームのギロチン」と呼ばれることになる問題を提起した。「である」(is)から「べきである」(ought)は導けない。事実の記述から規範を論理的に導出することはできない。科学がどれほど進歩しても、「何が善いか」を科学だけでは決められない。

フィリッパ・フットが1967年に提示したトロッコ問題はよく知られている。暴走するトロッコが五人の作業員に向かっている。レバーを引けばトロッコは別の線路に逸れるが、そちらには一人の作業員がいる。レバーを引くべきか。功利主義的に考えれば、五人を救うために一人を犠牲にすることは正当化される。しかし、ジュディス・ジャーヴィス・トムソンが提示した変形版では、橋の上から大きな人物を突き落としてトロッコを止めるという設定になる。論理的な帰結は同じだが、多くの人は直観的にためらう。論理と直観が衝突する。何人殺せば正しくなるのか

もし道徳が文化的な構築物にすぎないなら、異なる文化の道徳を批判する根拠は何だろう。しかし道徳が普遍的な事実なら、なぜ文化によってこれほど異なるのか。

百年後の人々は、今のわれわれのどんな行為を「野蛮だ」と言うだろう。もし道徳が進化の副産物にすぎないとしても、それでも道徳に従うべきなのだろうか。

正しさの土台が揺らぐと、もっと大きな問いが姿を現す。そもそも、人間の問いかけ自体に、宇宙は関心を持っているのだろうか。


宇宙はあなたに興味がない

コペルニクスが地球は宇宙の中心ではないと示し、ダーウィンが人間は特別に創造された存在ではないと示し、フロイトが人間は自分の心の完全な主人ですらないと論じた。この三つの転換は「人間の自己理解に対する三つの打撃」としてしばしば語られるが、この枠組み自体はフロイト自身が1917年のエッセイで提示したものであり、その妥当性には議論がある。ただし、人類の歴史が「自分たちは特別だ」という信念の段階的な解体であったという見方は、大まかな描写としてそれほど的外れではないだろう。

観測可能な宇宙には膨大な数の銀河が存在する。推定値は研究によって異なるが、数千億から数兆に及ぶとされ、それぞれの銀河に数千億の星がある。地球はそのうちのひとつの星のまわりを回るひとつの岩塊だ。

ただし、「宇宙が広いから人間は無意味だ」というのは論理的には飛躍だ。大きさと重要さは独立した概念であり、スケールの違いだけでは価値判断の根拠にならない。問題は、重要さを測る基準そのものが宇宙のどこにも見当たらないらしい、ということのほうだ。重要さを探すこと自体が意味という病なのかもしれない。

H.P. ラヴクラフトの文学はこの感覚を恐怖の源泉にした。宇宙的恐怖(cosmic horror)と呼ばれるその世界観の核心は、人間を超えた邪悪な存在がいるということではない。人間の存在が宇宙にとって根本的にどうでもいい、ということだ。無関心こそが最大の恐怖。

夜空を見上げて「きれいだ」と思う。その感動に意味はあるだろうか。星のほうはあなたのことなど知らない。人間が絶滅したあと、宇宙は何かを失うのだろうか。

「特別でなくてもいい」と本気で思えたら、それは絶望だろうか、安堵だろうか。

そして、夜空を見上げている「今」という瞬間すら、見かけほど確かなものではないかもしれない。


時間は流れていない

時間は流れている。誰もがそう感じている。過去から現在へ、現在から未来へ。しかし、この直観は本当に正しいのだろうか。

J.M.E. マクタガートは1908年の論文「時間の非実在性」で、時間を二つの系列として分析した。A系列は過去・現在・未来という動的な区別。B系列はある出来事が別の出来事より前か後かという静的な前後関係。マクタガートはA系列が矛盾を含むと論じた。あらゆる出来事は未来であり、現在であり、過去である。これらは互いに排他的な性質であるにもかかわらず、すべての出来事がそのすべてを持つ。この矛盾ゆえに、時間は実在しないと彼は結論づけた。この論証自体には多くの反論があるが、「時間の実在性は自明ではない」と示した点で、時間の哲学における重要な出発点のひとつとなった。

物理学からもこの直観は揺さぶられる。アインシュタインの特殊相対性理論では、同時性は相対的だ。ある観測者にとっての「今」は、異なる速度で移動する別の観測者にとっての「今」とは一致しない。物理学において、時間は空間と一体の四次元時空として扱われ、「現在」に特権的な地位は与えられていない。

この考え方を推し進めたのがブロック宇宙論(eternalism)だ。過去も現在も未来も、すべて等しく実在している。時間は「流れている」のではなく、四次元の構造物としてすべてが同時に存在している。われわれが時間の流れを感じるのは、意識の性質による見かけ上の現象にすぎない、とする立場だ。

反対に、プレゼンティズム(presentism)は、存在するのは現在だけだと主張する。過去はもはや存在せず、未来はまだ存在しない。日常的な直観にはこちらのほうが近いが、物理学との整合性には課題が残る。ベルクソンはこの二項対立そのものを退け、意識が生きる時間の流れを空間化された時間とは区別した(「ベルクソンの純粋持続」)。

アウグスティヌスは4世紀末の著作『告白』第11巻で、時間について考え込んだ。「時間とは何か。誰も私に問わなければ、私は知っている。しかし誰かに説明しようとすると、わからなくなる」。この困惑は千六百年以上を経た今も、基本的には解消されていない。

「過去」はどこにあるのだろう。記憶のなかだろうか。だが記憶は「今」の脳の状態にすぎない。もし時間が流れていないのなら、十年前のあなたは今もどこかに「存在している」のだろうか。時計が測っているものは、本当に時間なのだろうか。


何もわからない。ここまで読んで、何ひとつ解決しなかった。人生の意味も、死の正体も、自分が何者かも、時間が何であるかも、わからないままだ。ここに並べた問いは、どれひとつとして答えが出ていない。数千年かけて誰も出せなかったのだから、当然といえば当然だ。

この記事を書いた人間もまた、何もわかっていない。

さて、あなたはこの文章を閉じて、次に何をするだろう。何をするにしても、なぜそれをするのかは説明できないはずだ。でもたぶん、何かはする。コーヒーを淹れるか、歯を磨くか、眠るか。なぜかはわからない。でもする。

それだけが、おそらく確かだ。おそらく。

Read more

なにかをしよう!(何のために?)

人間は考える葦である、とパスカルは書いた。宇宙に比べれば無に等しい存在だが、考えることにおいて宇宙を超える、と。美しい話だ。ただ、葦が自分を葦だと知ったところで、風に折られる運命は変わらない。 献血にいこう 献血に行くと、ジュースがもらえる。お菓子も出る。献血カードにスタンプが押されて、回数が増えていくのを眺めると、なんだか立派な人間になった気がする。実際にやったことといえば、腕に針を刺されて、しばらくぼんやり座っていただけなのに。 この「いいことをした感触」は、どこから来るのか。 カントは『道徳形而上学の基礎づけ』(1785年)のなかで、行為の道徳的価値は義務(Pflicht)から行為することにあると論じた。気持ちがいいからやる、感謝されるからやる、そういう傾向性(Neigung)に基づく行為は、たとえ結果として善いものであっても、道徳的価値を持たない。誤解されやすいが、カントは傾向性から行為すること自体を否定しているわけではない。ただ、道徳的に「偉い」のは義務から行為した場合だけだ、と言っているにすぎない。 だとすれば、献血の気持ちよさは善行の証拠ではない。善行と気持ち

By Sakashita Yasunobu

私という凡庸

あなたの代わりはいる。それも、かなりたくさん。人間にも機械にも。 これは侮辱ではない。観察だ。深い穴を何十年もかけて掘り続けてきた専門家がいて、あらゆる穴の構造を瞬時に把握できるAIがいて、あなたはシャベルすら持たずにその傍らに立っている。素人として。 ある企業のインターンシップに参加したとき、期待されたのは「哲学を学んでいる人間ならではの視点」だった。だが哲学を学んでいるからといって、人を唸らせるような洞察が自動的に湧いてくるわけではない。当然だ。哲学は知識の自動販売機ではないし、「ならではの視点」はボタンを押して出てくるものではない。 深さも広さも足りないとき、残っているのは何だろう。たぶん、何も残っていない。だがその「何もなさ」のほうに、少しだけ面白い問いがある。 以下は、そのあたりのことを真夜中に考えていたら、いつのまにか遠くまで漂流してしまった思索の記録だ。答えは用意していない。答えがないことが答えだ、とすら言うつもりはない。ただ、考えてしまった。深夜の、誰にも頼まれていない時間に。 代替可能 すべては交換可能である 産業革命は肉体を機械に置き換えた。AIは認

By Sakashita Yasunobu

あなたの憧れは、誰ですか。

あなたは何者にもなれる、と誰かが言った。嘘だ。 サルトルは『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』(1946)でこう述べた。「人間はまず先に実存し、世界の中で出会い、その後に自分自身を定義する」。生まれつきの本質もなければ、設計図もない。まず存在してしまう。それから何であるかを作る。 「実存は本質に先立つ(l'existence précède l'essence)」。この定式は解放の宣言に聞こえる。しかし少し考えればわかる。何者にもなれるということは、まだ何者でもないということだ。何かを選ぶたびに、選ばなかった可能性が静かに消えていく。選ぶたびに自分は狭くなる。自由に作れるはずの自分が、選択のたびに固まっていく。 ハイデガーは「被投性(Geworfenheit)」という概念でこの状況を別の角度から照らした。私たちは自分で自分の存在を始めたわけではない。気がついたら、すでにここにいた。生まれる場所も時代も身体も選んでいない。われわれは「投げ込まれた」。その地点から、そのままの条件で、何者かになろうとするしかない。

By Sakashita Yasunobu

気の利かない問いたち

あなたがこの文章を読み終えるまでに、何ひとつ解決しない。約束する。 ここには答えがない。処方箋もない。読んだ後に世界の見え方が変わるような、気の利いた結論もない。ここにあるのは、2500年以上にわたって誰も解けなかった問いを並べて、その解けなさを眺める、ただそれだけの行為だ。 哲学には長い歴史がある。その長い歴史のなかで解決された問いは、驚くほど少ない。解決したように見えるものも、たいてい、問いの形を変えただけだ。それでも人は問い続ける。深夜2時、天井を見つめながら。シャワーの中で。カフェの窓際で、冷めたコーヒーを前にして。答えが出ないと知りながら。 以下は、そういう問いの集まりだ。考えても仕方のないことばかり。でも、一度考え始めたら、もう戻れなくなるかもしれない。 あなたはもう死んでいる あなたはすでに何度か死んでいる。ただ、誰もそれに気づかなかっただけだ。 5歳のあなたを思い出してほしい。あの子供と今のあなたは、いったい何を共有しているのだろう。記憶はほとんど残っていない。性格も違う。身体を構成する細胞は約7年から10年でほぼすべて入れ替わるから、物質的にもほとんど重

By Sakashita Yasunobu