生きること
信じることの不可能性
人を信じるとはどういうことか。そう問われたとき、ほとんどの人は「相手を信じること」についての素朴な感情を語りはじめる。あの人は嘘をつかない。あの人は約束を守る。しかし、その確信がどこから来ているのかを問い詰めていくと、やがて何も残らない。信頼の根拠を探す行為は、底のない井戸を覗きこむことに似ている。覗けば覗くほど、暗くなるだけだ。 信頼とは何か。それは知識なのか、感情なのか、それとも賭けなのか。そしてもし裏切られたら、それを「もう一度」組み立てなおすことなどできるのか。この問いに、哲学は誠実に答えようとしてきた。しかし誠実さが答えを保証するわけではない。 信頼と依存のあいだ アネット・ベイアーは1986年の論文「Trust and Antitrust」で、信頼と単なる依存(reliance)を区別した。わたしたちは天気予報に依存する。電車の時刻表に依存する。しかしそれらを「信頼している」とは言わない。天気予報が外れても、わたしたちは「裏切られた」とは感じない。ただ「がっかりする」だけだ。 ベイアーによれば、信頼が依存と異なるのは、そこに善意への期待があるからだ。