「もし1日が2時間長かった何をする?」

Redditで誰かが聞いた。「もし1日が2時間長かったら何をする?」

If your day was 2 hours longer what would you do?
by u/ImaginaryPhone2946 in selfimprovement

たぶん、何もしない。

いや、何かはするだろう。本を読む、散歩する、眠る。でもそれは後回しにしてきたことのリストであって、2時間を手に入れたところで、また別の2時間が足りなくなるだけだ。不足の感覚は、時間の量とは関係がない。

この問いを引き延ばしてみる。4時間なら。12時間なら。24時間なら。一日が永遠に続くなら。際限なく広げていくと、やがて量の問題が存在の問題に変わる。

以下は、答えの出ない問いについての覚え書きだ。哲学はこれらの問いに数千年取り組んできた。一つも解決していない。この記事も、何ひとつ解決しない。


2時間では何も変わらない

2時間増えたら何をするか。おそらくどの回答も似たようなものになる。読書、運動、趣味の時間。つまり「やりたかったけど後回しにしていたこと」のリストだ。この段階では、時間はまだ「足りないもの」として捉えられている。増えた分は既存の欲望に振り向けられるだけで、問いとしてはさほど深くない。「あなたは何を我慢していますか?」と聞いているのとほぼ同じだ。

12時間増えたらどうか。一日が36時間になると、太陽のリズムが対応しなくなる。朝と夜が一日の中に二度やってくる。「朝だから起きる」「夜だから寝る」という外的な構造が機能しなくなり、自分でリズムを設計しなければならない。時間が増えるとは、余白が広がることではなく、構造を自力で作る責任が増えることだ。そして多くの人は、その設計がひどく苦手だ。

24時間増えたらどうか。一日が48時間になると、他者との同期が壊れる。「今日中に返事します」が通じなくなる。ここで見えてくるのは、一日という単位が自分のためではなく、他者と同じ時間を共有するために存在しているということだ。24時間という長さは人間の概日リズムに対応しているように見える。だがそれ以上に、他者と「同じ今日」を生きられることが社会の前提になっている。一日が倍になったら、時間の前に孤独がやってくる。

一日が永遠に続くなら。明日は来ない。「明日やろう」が使えなくなる。一見、究極の自由に見える。だが、何かを「する」と決めることは、別の何かを「しない」と決めることでもある。その選択に重みがあるのは、時間が有限だからだ。無限の時間があれば、いつか何でもできる。すべてをいつかやれるなら、選択の意味がなくなる。何を始めても「いつでもやめられるし、いつでも再開できる」。それは自由ではなく、どの行為にも重力がかからない状態だ。

永遠の一日を手にした人間がたどり着く先は、おそらく「有限性の再発明」だ。自分で締め切りを作り、制約を課し、終わりのない時間に人工的な終わりを差し込む。有限であることは制約ではなかった。意味の条件だった。

では、一生がちょうど一日の長さだったらどうなるか。時間の総量は変わらない。ただ、一日という枠に収まることで、朝があり、昼があり、夜がある。始まりと終わりが見渡せる距離にある。全体が一つの弧を描いている。

人が必要としているのは時間の量ではなく、時間の形なのだと思う。始まりと終わりがあり、途中に節目があり、全体が弧を描いていること。その形があるからこそ、「今ここで何をするか」に意味が宿る。

だから、「一日が2時間長かったら何をする?」への答えは、おそらくこうだ。何も変わらない。2時間増えたところで、足りなさが少し延長されるだけだ。問題は時間の不足ではない。どうせ死ぬという有限性そのものが、行為を行為たらしめている。増やしても解決しない。解決すべきものが最初からないのだから。

Redditのある回答が、それを端的に言い当てている。

It's really obvious, waste it.

退屈の底が抜ける

パスカルは『パンセ』で、人間の不幸はすべて部屋の中に静かに座っていられないことから来る、と書いた。仕事も娯楽も恋愛も旅行も、すべては気晴らし(divertissement)にすぎず、自分自身と向き合うことを回避するための手段だ、と。

パスカルの洞察で興味深いのは、気晴らしの対象そのものが目的ではないという点だ。狩りを愛する人に獲物をそのまま渡しても喜ばない。追いかけるという行為、つまり注意が何かに占有され続けている状態そのものが求められている。楽しんでいるのは獲物ではなく、自分自身から注意が逸れていることだ。

ハイデガーは1929年から1930年にかけての冬学期講義『形而上学の根本諸概念』で、退屈を三つの段階に分けて論じた。

第一の退屈は「何かによって退屈させられる」こと。電車を待つ、列に並ぶ、といった状況に起因する退屈だ。第二の退屈は「何かに際して退屈する」こと。パーティーに出て、その場ではそれなりに過ごしていたのに、帰り道でふと「あの時間、退屈だったな」と気づく。退屈の自覚が遅れてやってくる。そして第三の退屈は「なんとなく退屈だ」という状態だ。特定の原因がない。世界全体が平板に感じられる。

ハイデガーはこの第三の退屈にこそ哲学的な意味を見出した。あらゆるものが等しくどうでもよくなるとき、はじめて「自分にとって本当に重要なものは何か」が問いとして浮かび上がる。退屈の底が抜けた先に、実存の問いがある。

現代の退屈は少し違う。スマートフォンがある。無限にスクロールできるコンテンツがある。退屈を感じる隙間が物理的に消されている。パスカルが「部屋で静かにしていられない」と嘆いた人間は、今やポケットの中に無限の気晴らしを持ち歩いている。

だが退屈が消えたかといえば、おそらくそうではない。隙間を埋める刺激が過剰になっただけで、退屈そのものは別の場所に潜んでいる。あるいは、退屈を感じ取る感受性そのものが鈍くなっているだけかもしれない。ハイデガーの第三の退屈に到達する前に、通知が鳴る。

何もせずに30分座っていられるだろうか。スマートフォンなしで、本もなしで、自分の思考だけを相手に。

もしそれが苦痛なら、何から逃げているのだろう。


永遠に同じ一日が来る

ニーチェは『悦ばしき知識』第341節で、ある思考実験を提示した。ある夜、悪魔が現れてこう告げる。「おまえが今生きているこの人生を、おまえはもう一度、そして数えきれないほど何度も、生きなければならない。そこには何一つ新しいものはない。あらゆる苦痛もあらゆる快楽も、あらゆる思考もため息も、すべてがまったく同じ順序で繰り返される。」これを聞いたとき、絶望するか。それとも「これほど素晴らしい知らせを聞いたことはない」と答えるか。

ニーチェにとって永遠回帰は倫理的な試金石だった。今この瞬間を、永遠に反復されてもよいと肯定できるかどうか。この一瞬を「もう一度、そして永遠に」と望めるかどうか。それが人生を本当に肯定しているかどうかの基準だと彼は考えた。

カミュは『シーシュポスの神話』(1942年)で、別の角度から反復を扱った。シーシュポスは神々の罰として巨大な岩を山頂まで押し上げ、岩が転がり落ちるのを見届け、また麓から押し上げる。永遠に。カミュはこの終わりなき反復のなかに不条理(l'absurde)を見出し、こう結んだ。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない」。行為に外的な意味がなくても、行為そのものに没頭すること、不条理を直視しながらなお行為し続けることが、不条理への反抗になりうる、と。

映画『恋はデジャ・ブ』(原題 Groundhog Day, 1993年)は、この哲学的問いを娯楽の形式に翻訳した。同じ一日を果てしなく繰り返す男が、混乱し、快楽に溺れ、絶望し、やがて「今日をどう生きるか」にたどり着く。

だが映画は「改心の物語」として閉じる。現実の反復は、もっと地味で、もっと厄介だ。月曜の朝にアラームが鳴り、同じ駅で同じ電車に乗り、同じ場所に座る。何も起きなかった日を何年も繰り返す。その反復のなかで、自分が静かに摩耗していく感覚。哲学の教科書に載るほどドラマチックではないが、おそらく一番多くの人の実存に触れる問いはこちらだ。

もしこの人生をもう一度、最初からまったく同じに繰り返すとして、それを望めるか。

望めないとしたら、今この瞬間に対して何ができるのか。


自分である根拠がどこにもない

プルタルコスは『テセウスの生涯』で、有名な思考実験を伝えている。英雄テセウスの船はアテナイの港に記念物として長く保存されていたが、年月とともに古くなった板が一枚ずつ新しいものに交換されていった。すべての板が入れ替わったとき、それはまだテセウスの船か。

この問いを人間に向けると、事態はさらに込み入る。人体の細胞は絶えず入れ替わっている。脳の神経回路も変化し続ける。物質的に言えば、十年前の自分と今の自分はほとんど別の存在だ。では何をもって「同じ自分」だと言えるのか。

ジョン・ロックは『人間知性論』(1689年)で、個人の同一性は記憶の連続性にあると論じた。過去の自分を記憶している限り、それは同じ自分だ。だが、5歳の誕生日を覚えているだろうか。先月の火曜日の昼食を覚えているだろうか。人生の大部分は忘却の中にある。記憶が同一性の根拠なら、忘れてしまった過去の自分はもう自分ではなかったのか。

デレク・パーフィットは『理由と人格』(1984年)で、この問いに対して徹底的に冷静な見方を提示した。パーフィットによれば、個人の同一性は、私たちが考えているほど重要な問題ではない。重要なのは心理的な連続性と結合性の程度であり、「同じ自分かどうか」に明確な線引きがあると期待すること自体が、問いの立て方を誤っている可能性がある。

「自分らしく生きる」「ブレない自分でいる」。日常的に口にする言い回しだが、ここでいう「自分」とは何を指しているのか。記憶の束か。性格の傾向か。他者から見た像か。

そのどれも確かな根拠を持たないとしたら、今あなたが守ろうとしている「自分」は、いったいどこにいるのか。


他人の痛みには手が届かない

哲学には「他者の心の問題」(problem of other minds)と呼ばれる古くからの難問がある。自分には意識がある。それは疑えない。だが、目の前の人にも同じように意識が存在することを、原理的に証明する方法がない。

トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか」で、この問題を鮮やかに描き出した。コウモリは超音波の反響で世界を知覚する。たとえコウモリの脳構造を完全に解明したとしても、超音波で世界を感じるとは「どのようなことか」(what it is like)は、人間には理解しえない。経験の主観的な側面は、客観的な記述に還元できない。

身近に考えれば十分だ。誰かが「頭が痛い」と言う。あなたはその痛みを感じない。自分の頭痛の記憶に照らして「こんな感じだろう」と推測するだけだ。しかし、その推測が正しいかどうかを確かめる手段はない。あなたの見ている「赤」と隣の人が見ている「赤」が、同じ経験であるかどうかさえ、原理的にはわからない。いわゆる逆転クオリアの問題だ。

ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』で、私的言語の不可能性を論じた。もし感覚が完全に私的なものなら、感覚について言語で伝え合うこと自体が不可能であるはずだ。にもかかわらず、人は「痛い」「うれしい」「悲しい」と言い合い、おおむね通じ合っている。あるいは、通じ合っていると信じている。

共感という言葉は美しい。だがその中身を覗けば、他人の状況に対して自分の感情の記憶を投影する行為だ。他人の痛みを「感じる」のではない。自分の痛みを使って、相手の痛みを想像しているにすぎない。

すべての人間関係は、この根本的な断絶の上に建てられている。


信じたいものを信じられない

一つ試してみてほしい。今すぐ「地球は平らだ」と本気で信じてみてほしい。

できない。信念は、意志の力で自由に切り替えられるものではない。哲学ではこの性質を信念の非随意性(doxastic involuntarism)と呼ぶ。何を食べるかは選べるが、何を信じるかは選べない。信念は証拠や経験や思考の積み重ねから、いわば自然に形成されるものであって、スイッチのように操作できる対象ではない。

ウィリアム・ジェイムズは1896年の講演「信じる意志」で、この原則への反論を試みた。ジェイムズの論点はこうだ。十分な証拠がなく、判断を保留すること自体が実質的に一方の選択と等しく、かつ重大な帰結を伴うような場面では、証拠がなくても信じることは合理的でありうる。ジェイムズが念頭に置いていたのは宗教的信仰だった。神の存在を裏付ける証拠は決定的ではない。だが「信じない」という選択は、信仰がもたらしうる利益を手放すことを意味する。

パスカルも「パスカルの賭け」として知られる議論で似た構造を示した。神が存在する方に賭けて、もし存在すれば無限の利益を得る。存在しなくても損失は有限だ。だから信じる方に賭けることが合理的だ、と。ただし、パスカル自身がこの議論の限界を了解していた。「信じるべきだ」という合理的結論に到達することと、実際に信じることは別の問題だ。計算で信仰を獲得することはできない。だからこそパスカルは、習慣や実践を通じて信仰に近づくことを勧めた。これはまさに信念の非随意性にぶつかった末の迂回路だった。

確証バイアスという認知心理学の知見は、この問題をさらに深くする。人はすでに信じていることを裏付ける情報を優先的に探し、矛盾する情報を軽視する傾向がある。つまり、信念が証拠によって形成されるのではなく、信念のほうが証拠の解釈を方向づけている。

信じることが選択でないなら、「思想の自由」とは何を意味するのか。信じたいものを信じられないなら、あなたの信念はいったい誰のものなのか。何も確かではないのだとしたら。


意味のないものが手から離れない

引き出しの奥に壊れた時計がある。もう動かない。修理するつもりもない。でも捨てられない。大切な人からもらったものだから。

この時計に物理的な価値はない。時間を示す機能も失われている。それでも手放せないのは、この時計が「意味」を帯びているからだ。だが、その意味はどこにあるのか。時計の中にではない。持ち主の記憶の中にある。物が意味を持つのではなく、人が物に意味を投げかけている

「もののあはれ」は、日本語に古くからある美的概念で、物事のはかなさに触れたとき心が動くことを指す。本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』を通じてこの概念を体系化した。宣長によれば、「もののあはれを知る」とは、事物の本質に心が触れて動くことであり、それは理性の判断ではなく、感受性そのものの問題だ。

物への執着は、非合理として片づけられることが多い。ミニマリズムは物を減らすことで精神的自由が手に入ると説く。一面では正しい。だが、物を手放すとき、その物に結びついた記憶の錨もまた流されていくのではないか。

人が物を所有しているのか。それとも、物が記憶を所有しているのか。

もしその壊れた時計を捨てたら、あの瞬間は、本当にあったのか。


言葉では届かない

ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921年)の最後の命題でこう書いた。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」

だがヴィトゲンシュタイン自身が、語りえぬものについて一冊の本を書いた。この矛盾は意図的だったと解されることが多い。彼自身が命題6.54で述べているように、この本は梯子のようなものであり、登り終えたら捨てるべきものだ。語りえないものの存在を示すためには、語ろうとする試みとその挫折が必要だということだ。だからこそ哲学は文学的表現を必要とするのかもしれない。

サピア=ウォーフ仮説は、言語が思考を枠づけるという考え方で、言語学者エドワード・サピアとベンジャミン・リー・ウォーフの研究に由来する。言語が思考を完全に決定するという強い主張はほぼ退けられているが、言語が認知の傾向に影響を与えるという弱い主張には実証的な裏付けがある。たとえば、色の名前の区分が言語によって異なることで、色の弁別速度に差が出ることが複数の実験で示されている。

音楽は何かを「伝えている」。聴けばわかる。だが、それが何であるかを言葉にしようとすると、必ず何かがこぼれ落ちる。絵画も、詩も、あるいは沈黙そのものも、言語に翻訳しきれない何かを運んでいる。

あなたの人生で最も大事なこと。それは、言葉にしたとき、まだそこにあるか。


輝いていたあの頃はどこにもない

ノスタルジアという語は、もともと病名だった。1688年、スイスの医師ヨハネス・ホーファーが学位論文の中で、故郷から遠く離れたスイス人傭兵に見られる病的な郷愁を記述するためにこの語を造った。ギリシャ語のnostos(帰郷)とalgos(痛み)を組み合わせた造語であり、ノスタルジアは最初から「痛み」として定義されている。

現代の心理学研究は、ノスタルジアをおおむね肯定的な機能を持つ情動として捉えている。自己連続性の感覚を強め、孤独感を和らげ、人生に意味を見出す実感を高める効果が報告されている。

だが、ノスタルジアには奇妙な性質がある。人は、当時はさほど幸福ではなかった時期についても懐かしさを覚える。受験勉強の日々、忙殺されていた日々、退屈を持て余した夏休み。当時は早く終わってほしいと願っていたはずの時間が、振り返ると金色に輝いている。

アネモイア(anemoia)という造語がある。ジョン・コーニグの『The Dictionary of Obscure Sorrows』で提案された概念で、自分が経験していない時代への郷愁を指す。生まれる前の時代の写真を見て、なぜか懐かしさを覚える。行ったことのない場所を、帰るべき場所のように感じる。

ノスタルジアの対象は、実は「過去」ではないのかもしれない。過去は事実としてそこにあった。だが、今あなたが懐かしんでいる「あの頃」は、今のあなたが再構成した物語だ。届かない一言を過去の自分に送りたくても、その宛先はもう存在しない。記憶は保存ではなく再構成であるということは、認知心理学において最も堅固に支持されている知見の一つだ。

懐かしさとは、過去への想いではなく、今この瞬間がどこか足りないという、静かな告白なのかもしれない。


毎晩あなたは消えている

眠りに落ちる瞬間を覚えている人はいない。覚えていたなら、それはまだ眠っていないということだ。意識には、自らの消滅を捉える手段がない。

ロックが言うように個人の同一性が意識の連続性にあるのだとすれば、睡眠はその連続性を毎晩断ち切っていることになる。深いノンレム睡眠の段階では、主観的体験はほぼ消失するとされている。夢も見ない。何も感じない。そこに「あなた」はいない。

朝、目が覚める。自分は自分だと感じる。だが、それは昨夜の自分と本当に同じ自分か。記憶が連続しているから同じだと感じているだけではないか。もし眠っている間に記憶をそっくり別の誰かのものに入れ替えられたとしたら、目覚めた「あなた」はそのことに気づけるか。

デカルトは『省察』で、夢と覚醒を確実に区別する基準はないと指摘した。夢の中で「これは現実だ」と確信していた経験は、多くの人にあるだろう。だとすれば、今この瞬間が現実であるという確信もまた、夢の中の確信と同じ種類のものではないか。

毎晩、意識が消える。毎朝、意識が戻る。このプロセスを「継続」と呼ぶか「断絶と再起動」と呼ぶかは、実は決着のつかない問いだ。

あなたは昨夜の自分と同じ人間として目覚めた、と信じている。その信頼の根拠は何か。


いつまでも何かを待っている

サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』(1953年初演)では、ヴラジーミルとエストラゴンの二人が、ゴドーという人物を待ち続ける。ゴドーは来ない。二人はゴドーが誰なのか、なぜ待っているのかさえ定かではない。それでも待つ。「行こうか」「ああ、行こう」と言い交わした後、ト書きにはこうある。「二人は動かない。」

待つという行為は、どうも人間の根底に深く巣くっているらしい。子どもの頃は大人になるのを待っていた。学生は卒業を待ち、社会人は週末を待ち、休暇を待ち、退職を待つ。そのすべてが過ぎた後で、また新しい何かを待ち始める。

待っている間、人は「今」を仮のもの、本番前のリハーサルのように扱う。本当の人生は、あの出来事が起きてから始まる。あの条件が揃ってから。あの人に出会ってから。だが条件が整った瞬間に、次の条件が現れる。

ハイデガーは、人間の存在(Dasein)は本質的に先駆的だと論じた。人は常に自らの可能性に向かって存在しており、現在はつねに未来への投企(Entwurf)のなかにある。つまり、待つことは人間存在の構造そのものに織り込まれている。

もし待つことをやめたら、何が残るか。今、この瞬間だけが残る。

だがその瞬間は、次の瞬間を待つことなしに、意味を持てるのだろうか。

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