持っていたつもりだった
あなたのスマートフォンを手に取ってほしい。あなたはそれを買った。代金を払った。箱を開け、フィルムを剥がし、初期設定を済ませた。だからそれはあなたのものだ。そう思っている。だが中に入っている音楽はあなたのものではない。電子書籍もあなたのものではない。アプリはライセンスに基づいて一時的に使用を許可されているだけで、提供者が気を変えれば明日には消える。あなたが「持っている」と感じているものの大半は、あなたのものではない。
そもそも「持つ」とは何か。この問いは思ったより厄介で、思ったより古い。
労働を混ぜる
ジョン・ロックは『統治二論』第五章で、所有権の起源を説明しようとした。神は地上のすべてを人類に共有のものとして与えた。ではなぜ、ある土地やある果実が特定の個人のものになるのか。ロックの答えはこうだ。すべての人間は自分自身の身体を所有している。身体の労働、手の働きは、その人固有のものである。だから自然の状態にあるものに自分の労働を混ぜたとき、それは自分のものになる。リンゴを木からもいだ瞬間、そのリンゴはあなたの所有物になる。あなたの労働が加わったからだ。
この論理は一見すっきりしている。しかし少し考えると奇妙なことに気づく。なぜ労働を「混ぜる」と所有権が発生するのか。トマトジュースを海に注いだら、海を所有することになるのか、それともトマトジュースを失っただけなのか。ロバート・ノージックはこの比喩でロックの論理を皮肉った。労働と所有の結びつきは、ロックが思うほど自明ではない。
しかもロックには条件がある。「他の人々のために、十分な量の、同じように良いものが残されている限り」。ロック的条件節と呼ばれるこの留保は、現実にはほとんど満たされたことがない。土地は有限であり、誰かが囲えば別の誰かの取り分は減る。善も正義もない。ロックの所有論は、その出発点において既に破綻の種を抱えている。
所有は盗みである
ピエール=ジョゼフ・プルードンは1840年に問うた。「所有とは何か」。そして自ら答えた。「所有とは盗みである」。
この一文は挑発的に聞こえるが、プルードンの論理は単純だ。自然は誰のものでもない。誰かがそれを私的に囲い込んだとき、その行為は他のすべての人間から使用する権利を奪っている。つまり、最初の所有行為はつねに略奪である。ロックの労働所有論は、この略奪を正当化するための物語にすぎない。
マルクスはさらに踏み込んだ。私的所有は単なる法的制度ではなく、人間を人間自身から切り離す構造だと考えた。労働者は自分の労働の産物を所有できない。自分が作ったものが自分のものではないという経験が、人間を疎外する。所有をめぐる問いは、正義の問いであると同時に、存在の問いでもある。
あなたが何かを「自分のもの」と呼ぶとき、あなたはそれを他者から遮断している。所有とは、本質的に排除の行為だ。鎖のない牢獄のなかで、囲い込まれた空間を自由と呼んでいるだけかもしれない。
存在と所有
ガブリエル・マルセルは1935年の『存在と所有』で、人間の存在様式を二つに分けた。「持つ avoir」と「在る être」である。
「持つ」の様式において、人間は世界を対象として扱う。物を獲得し、管理し、支配する。人間関係ですら所有の対象になる。「私の友人」、「私の恋人」、「私のフォロワー」。マルセルはこの様式の核心に、自己中心性を見た。所有する主体は世界の中心に自分を置き、あらゆるものを自分との関係で測る。
しかし「在る」の様式はまったく異なる。それは他者に対して開かれていること、「使用可能であること disponibilité」であり、自分を贈与として差し出すことだ。マルセルにとって、存在の充実は所有の蓄積からは決して生まれない。むしろ所有への執着が存在を空洞化させる。
持てば持つほど空虚になる。これはマルセルだけの発見ではない。エーリッヒ・フロムは『生きるということ To Have or to Be?』で同じ構造を描いた。現代人は「持つ」ことで自己を定義しようとするが、所有物はつねに失われうるという不安が、所有する主体を蝕む。あなたが物を持っているのではない。物があなたを持っている。
意志の外化
ヘーゲルは所有をまったく別の角度から捉えた。『法の哲学』において、所有は自由な意志が外的世界に自己を表現する行為だとされる。
人間は自由な存在であり、その自由は内面にとどまっている限り抽象的でしかない。意志が外的な物に向かい、それを自分のものとして引き受けるとき、自由は初めて具体的な現実になる。つまりヘーゲルにとって、所有は自由の条件である。何も持たない人間は、自由を現実化する手段を持たない。
この逆説は不愉快だ。所有を否定すれば自由も消える。しかし所有を肯定すれば、プルードンが指摘したような暴力と排除を肯定することになる。誰も何も選んでいないとしても、所有という制度のなかに投げ込まれている以上、この構造から逃れることはできない。
何も持たない時代
デジタル技術は、所有の概念そのものを溶解させつつある。
かつてレコードを買えば、その円盤はあなたのものだった。棚に並べ、傷をつけ、友人に貸し、死後に遺品として残された。今、あなたが月額を支払って聴いている音楽は、あなたのものではない。サービスが終了すれば消える。電子書籍も同じだ。あなたが購入したと思っているものは、実際にはライセンスの一時的な付与にすぎない。利用規約の変更ひとつで、あなたの「蔵書」は一夜にして消滅しうる。
NFTはこの問題を解決するかに見えた。ブロックチェーン上に「所有」を刻み込む。しかし法学者たちが繰り返し指摘するように、NFTの購入は著作権も知的財産権も付与しない。あなたが持っているのは、トークンという記号だけだ。その記号が指し示す画像や音楽への権利は、依然として制作者に帰属する。所有しているように見えるが、何も所有していない。
サブスクリプションの時代は、マルセルの洞察を残酷なまでに証明している。「持つ」ことで存在を支えようとする人間から、「持つ」こと自体が剥奪されていく。あなたはサービスにアクセスしているだけだ。接続が切れれば、何も残らない。
「私のもの」という感覚
しかし所有を哲学的に解体しても、「自分のものだ」という感覚は消えない。
行動経済学はこれを授かり効果と呼ぶ。人は自分が所有しているものを、実際の市場価値よりも高く評価する。手放すことに不合理な抵抗を感じる。この効果は、物理的な所有物だけでなく、アイデアや信念にも及ぶ。自分の意見を「自分のもの」だと感じたとき、それを手放すことは自己の一部を失うことと同義になる。
どこが私なのかという問いは、何を「私のもの」と感じるかという問いと切り離せない。所有の感覚は、自己同一性の感覚と深く結びついている。財布を盗まれたとき、失ったのは金銭だけではない。「私の」という境界線が侵犯されたことへの怒りがある。所有とは、自己の輪郭を引く行為なのかもしれない。
だがその輪郭は幻想だ。あなたが「自分のもの」だと思っている身体ですら、やがて分解される。ロックは身体の自己所有を所有論の出発点に置いたが、その出発点すら確かではない。透明人間の倫理が問うたように、誰にも見られていないとき、あなたの所有は何によって保証されるのか。
手を開く
あなたは今日も何かを手に入れようとする。物を、地位を、評価を、フォロワーを。それが「自分のもの」になったとき、少しだけ安心する。しかしその安心は、失うことへの恐怖の裏返しでしかない。持てば持つほど、失うものが増える。
プルードンは所有を盗みだと言った。マルセルは所有が存在を蝕むと言った。ヘーゲルは所有なしに自由はないと言った。どの哲学者も正しく、どの哲学者も慰めにならない。
握りしめた手を開いたとき、そこには何もない。最初から何もなかった。あなたが持っていたと思ったものは、あなたの手を通り過ぎていく途中だっただけだ。