隠すものなどなかった

人類最初の感情は、恐怖でも喜びでもなかったらしい。

創世記によれば、アダムとイヴが禁断の果実を食べた後、最初に起きたことは「裸であることを知った」ことだった。痛みでも凍えでもなく、羞恥。自分の身体が見られているという事実に耐えられなくなった。そして、葉を纏った。

この物語を宗教的な寓話として読むか、人類学的な原型として読むかは、どちらでもいい。重要なのは、この物語が提起する問いだ。裸であることは、なぜ恥ずかしいのか。私たちは何を隠しているのか。そして、隠すことは本当に可能なのか。

裸を知った日

創世記2章25節はこう記す。「人とその妻は二人とも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。そして禁断の果実を食べた後、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知った」(3章7節)。

この「知った」という動詞が鍵だ。裸は最初からそこにあった。変わったのは身体ではなく、身体に対する意識だ。つまり、羞恥は身体の属性ではなく、意識の属性だ。裸そのものが恥ずかしいのではない。「裸であることを知っている」ことが恥ずかしいのだ。

ここには、深い構造がある。羞恥は自己意識を前提とする。自分を外側から見る視点、つまり他者のまなざしを内面化する能力がなければ、羞恥は生じない。動物は裸だが、恥じていない。幼児は裸を気にしない。羞恥は、自分が他者にとって対象であるという認識が芒生えた瞬間に生まれる。

アダムとイヴが「目を開いた」のは、神学的には原罪の瞬間だが、哲学的には自己意識の誕生の瞬間でもある。そしてその自己意識は、最初から羞恥という形をとった。自分を知るということは、自分が見られうる存在であると知ることであり、その認識は最初から不快なものだった。

まなざしの重力

サルトルは『存在と無』の中で、羞恥を他者のまなざしと結びつけた。彼の有名な「見ること(le regard)」の分析では、他者に見られるという経験が羞恥の核心である。

サルトルは、羞恥は「私が他者にとっての対象であることの恥ずかしい把握」だと述べた。私は世界を見る主体であると同時に、他者から見られる対象でもある。他者のまなざしの下で、私は自分が「もの」であることを突きつけられる。その瞬間の不快さが、羞恥だ。

サルトルが挙げる有名な例がある。鍵穴をのぞいている人。のぞき見という行為に没頭しているとき、私は純粋な意識であり、自分自身を意識していない。しかし、延下で足音がする。誰かがいる。見られている。その瞬間、私は突然「のぞき見をしている人」として自分を意識する。羞恥が津波のように押し寄せる。

ここで重要なのは、実際に誰かがそこにいるかどうかは問題ではないということだ。羞恥は、実際の他者がいなくても生じる。内面化されたまなざし、つまり「見られているかもしれない」という可能性そのものが、羞恥を駆動する。透明人間になれたとしても、道徳は残るのかという問いの裏側にあるのは、この構造だ。見られていなくても、私たちは羞恥を感じる。見られていなくても、服を着る。他者のまなざしは、実在の他者を必要としないほど深く内面化されている。

レヴィナスは、羞恥をさらに根源的な場所に位置づけた。1935年の『逃走論(De l’évasion)』で、彼は羞恥を存在の裸出として論じた。レヴィナスにとって、羞恥は他者の前で感じるものだけではない。羞恥は、自分自身の存在に縛りつけられていることの不快さだ。「裸」とは、身体の裸だけではない。存在そのものの裸だ。自分が「ここにいる」という事実から逃れられないことへの、存在論的な居心地の悪さ。

あなたは私を知りうるかという問いに対して、羞恥は一つの不快な答えを提示する。あなたは私を知りえないが、私の裸は見えてしまう。羞恥は、他者に理解されることなく、ただ見られることへの反応だ。

裸の生

ここで、「裸」という言葉が別の文脈で現れる。

ジョルジョ・アガンベンは『ホモ・サケル』(1998年)で、「裸の生(nuda vita / bare life)」という概念を展開した。アリストテレスが区別した二つの「生」の概念、すなわちゾエー(zoē、生きているという単純な事実)とビオス(bios、政治的に質化された生の形式)。アガンベンが問題にしたのは、政治的な保護を剥ぎ取られた生、つまりビオスを失ってゾエーに還元された生だ。

「裸の生」の原型としてアガンベンが取り上げたのが、古代ローマ法の「ホモ・サケル(homo sacer)」だ。聖なる人間と呼ばれながら、誰が殺しても罪にならず、しかし犠牲として神に捧げることもできない。法の内側にも外側にも属さない、不気味な中間地帯。

アガンベンの「裸」は、アダムとイヴの「裸」とは異なる文脈にある。しかし、構造的な類似性がある。どちらも、「覆い」を剥がれた状態の脅威を語っている。アダムとイヴは無垢という覆いを失った。ホモ・サケルは政治的保護という覆いを失った。どちらも、裸にされた生だ。

これは抽象的な議論ではない。20世紀の強制収容所、難民キャンプ、入管施設。これらの場所では、人間は政治的な保護を剥ぎ取られ、「ただ生きているだけ」の状態に置かれる。文字通り、裸にされる。アガンベンは、この「裸にする」という操作が近代の主権権力の本質的な機能だと論じた。

羞恥と「裸の生」は、こうして交差する。羞恥は、自分の裸を意識する内的な経験だ。「裸の生」は、他者によって裸にされる外的な操作だ。しかしどちらも、保護を失うという同じ構造の上にある。

精神の脱衣

21世紀に入って、「裸」の意味が変容した。

SNSの普及は、かつてない規模の自己露出を生み出した。人々は自発的に自分の私的な生活、感情、意見、身体を公開する。インスタグラムのストーリー、Xのつぶやき、TikTokのダンス。これらはすべて、一種の「脱衣」だ。

しかし、この「脱衣」は、アダムとイヴの羞恥とはまったく異なる構造を持っている。アダムとイヴは裸を知って隠した。SNSの自己露出は、裸を知った上で、自ら選んで見せる。ただし、見せているものは本当の「裸」ではない。入念に編集され、フィルタリングされ、演出された「裸に見えるもの」だ。

カロリン・ヴェリスは『プライバシー・イズ・パワー(Privacy Is Power)』(2020年)で、プライバシーと自己提示の関係を論じた。プライバシーは自己提示をコントロールする力と密接に結びついている。自分が何を見せ、何を隠すかを選ぶ権利。それが奪われるとき、人は「裸にされる」。

問題は、SNS上の自己露出が「自発的」に見えて、どこまで自発的なのかということだ。あなたを撮ったときに生じる不快さと、自分から進んで「撮らせる」ときの緊張感は、根が同じかもしれない。どちらも、まなざしの前に身をさらすという行為だ。違いは、そのまなざしの強度と方向だけだ。

SNSは、自己露出を加速させながら、同時に自己露出への不安も加速させる。より多くを見せながら、より多くを怖れる。投稿した後で不安になる。削除する。再び投稿する。これは、羞恥と露出欲の終わりなき振動だ。いちじくの葉を纏っては外し、外しては纏い。

隠すという権利

プライバシーの哲学は、「隠す権利」について考える。

「隠すものがないなら、監視を恐れる必要はない」という主張がある。これは、監視社会を正当化する際にもっともよく使われる論理だが、哲学的には極めて薄弱だ。

隠すことが必要なのは、「悪いことをしているから」ではない。トイレのドアを閉めるのは、中で何かよくないことをしているからではない。あなたがカーテンを閉めるのは、家の中で罪を犯しているからではない。隠すことは、人間の尊厳の基本的な構成要素だ。マーサ・ヌスバウムが『感情と法(Hiding from Humanity)』(2004年)で論じたように、羞恥は人間の脆弱性と深く結びついており、その脆弱性を保護することは社会の基本的な責務だ。

名前だけが残る。名前は人を特定し、同時に隠す。別名は裸を覆う衣服のようなものだ。実名は、裸そのものだ。インターネットが別名と実名の境界を曖昧にする時代に、私たちはどこまで裸になるのか。あるいは、別名という衣服を何枚重ねても、その下の裸が透けて見えるようになるのか。

プライバシーの権利とは、つまるところ、「いつ、どこで、誰に対して裸になるかを自分で決める権利」だ。服を脱ぐ権利ではなく、服を着たままでいる権利。その権利が、デジタル技術によって、分単位で侵食されている。

鎖を愛した動物がいたように、私たちは監視を受け入れることで安全を得ようとする。隠す権利を放棄することで、守られていると感じようとする。しかし、裸にされた人間が「守られている」のだとしたら、それはアガンベンの「裸の生」の構造に不気味に似ている。

恥じるということの意味

ここで、もう一度、羞恥という感情そのものに戻る。

羞恥は、不快な感情だ。しかし、その不快さには独特の構造がある。恐怖は外的な脅威に向かう。怒りは他者に向かう。しかし羞恥は、自分自身に向かう。羞恥の中で、私は自分から逃れたいのに逃れられない。自分の存在そのものが重荷になる。

レヴィナスが読み取ったのは、この構造だ。羞恥は、存在からの「逃走」の欲望と、逃走の不可能性の同時的な経験だ。私は自分の裸から逃れたい。しかし、裸は私自身だ。逃れる先がない。

どこが私かという問いは、羞恥の中ではこう変形される。「私」がどこにいようと、羞恥はその「私」を追いかけてくる。顧を覆っても、顧を覆った自分がそこにいることを知っている。服を着ても、服の下に裸があることを知っている。羞恥は、自己意識の影のように、どこまでもついてくる。

そして、奇妙なことに、この羞恥こそが私たちを「人間」にしているのかもしれない。羞恥を感じることができるということは、自分が他者にとって対象であると意識できるということであり、それは他者の存在を認めているということでもある。羞恥のない存在は、他者のない存在だ。それは孤立とも自由とも呈べるが、たぶん、人間的ではない。

いちじくの葉の行方

アダムとイヴはいちじくの葉を纏った。それが最初の衣服だった。

それ以来、私たちはずっと「いちじくの葉」を探し続けている。衣服、礼儀、社会的役割、別名、ペルソナ。すべては、裸を覆うための装置だ。そしてその装置の下には、つねに裸がある。

サルトルは、見られることの不快さを記述した。レヴィナスは、存在の裸出というもっと根源的な居心地の悪さを記述した。アガンベンは、政治的保護を剥がれた裸の生を記述した。ヌスバウムは、羞恥と尊厳の関係を記述した。SNSは、自発的な裸と強制的な裸の境界を曖昧にした。

どれも、「裸」という同じ比喩の周りを回っている。そしてどれも、裸を完全に覆う方法を見つけていない。

たぶん、見つからない。いちじくの葉は、最初からその程度のものだった。裸を隠すことは、裸が存在することを前提としている。隠す行為そのものが、裸を告発している。

あなたは今、服を着ている。画面の向こうから、誰にも見られていないと思っている。しかし、あなたは知っている。服の下に、裸があることを。そして、それを知っていること自体が、もう一つの裸であることを。

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怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

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嘘が真実を食い尽くす朝

「この文は嘘である」 この一文を前にして、あなたは立ち往生する。もし真だとすれば、文の内容に従って偽になる。もし偽だとすれば、「嘘である」という主張が間違っていることになり、真になる。真だと仮定しても偽だと仮定しても、反対の結論にたどり着く。出口がない。 これは言葉遊びではない。2300年以上にわたってこの問いに取り組んできた哲学者と論理学者たちは、いまだに合意に至っていない。解決策はいくつも提案されてきた。どれも、別の問題を抱えている。 あなたが自分自身について何かを語ろうとするとき、同じ構造がそこにある。 循環の入口 試しにやってみてほしい。「この文は嘘である」が真か偽か、判定する。 真だと仮定する。この文は「嘘である」と主張しているのだから、偽になる。仮定と矛盾する。 では偽だと仮定する。「嘘である」という主張が偽ということは、嘘ではない。つまり真になる。やはり仮定と矛盾する。 どちらに転んでも矛盾する。そしてこの矛盾は、推論のどこかでミスを犯したから生じたのではない。前提そのものに埋め込まれている。 エピメニデスの不発弾 よく混同されるが、古代ギリシアの

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何でも飾れる額縁だけが残った

1917年、マルセル・デュシャンは既製品の男性用小便器に「R. Mutt」と署名し、「泉(Fountain)」と名づけてニューヨーク独立芸術家協会の展覧会に出品した。拒否された。それだけの話だ。だが「それだけ」のはずの出来事が、それ以降のすべての芸術を汚染した。美しさも技巧も素材の選択も関係ない。署名ひとつ、提示の身振りひとつで、便器が「芸術」を名乗れる。そしてその瞬間から、「芸術とは何か」という問いは回答不能になった。回答不能のまま、100年以上が過ぎている。 目で見えないものが芸術を決める 1964年、アンディ・ウォーホルはスーパーマーケットに並ぶブリロの箱と見た目がまったく同じ「ブリロ・ボックス」をギャラリーに置いた。哲学者アーサー・ダントーは、この事態に根本的な問いを見出した。視覚的に区別できない二つの対象のうち、片方だけが芸術である。では芸術を芸術にしているのは何なのか。 ダントーの答えは「アートワールド」だった。芸術作品を芸術たらしめるのは知覚可能な性質ではなく、理論と批評と歴史が編み上げた解釈の共同体、その「理論的雰囲気」なのだと。あなたには何も見えていない。文字

By Sakashita Yasunobu