椅子に座ると耳が遠くなる

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あなたが信頼されるのは、共感する能力があるからだ。あなたが慕われるのは、耳を傾けることができるからだ。そしてあなたが権力を手にしたとき、その能力は静かに劣化し始める。本人はそれに気づかない。気づく必要がないからだ。誰もそれを指摘しなくなるからだ。

これは道徳の話ではない。「権力者は悪い人間だ」という素朴な糾弾でもない。共感という能力が、権力という構造のなかで構造的に朽ちていく、そのメカニズムの話だ。

共感で手に入れた椅子

UCバークレーの心理学者ダッカー・ケルトナーは、20年以上にわたって「権力」の心理学を研究してきた。その知見をまとめた著書 The Power Paradox(2016)が示す結論は、直感に反している。

権力を獲得するために最も重要な能力は、冷酷さでも、政治的手腕でも、カリスマでもない。共感だ。

ケルトナーの実験では、大学の寮生活においてどの学生が影響力を獲得するかを追跡した。最初の一週間で周囲から信頼を得た学生が持っていた特性は、熱意、親切さ、傾聴力、落ち着き、そして開放性だった。権力は、他者の生活を向上させる能力を通じて与えられる。優しい人から壊れるのは、共感を持つ人間がまさに権力の候補者だからなのかもしれない。

この発見は、「権力を握るには冷酷でなければならない」という文化的直感を正面から否定する。"nice guys finish last"という言い回しは、少なくともケルトナーの実験室の中では、事実に反していた。

椅子が共感を食い尽くす

しかし、ここからが本題だ。

権力を獲得するために必要だった共感が、権力を獲得した瞬間から劣化し始める。ケルトナーはこれを「パワー・パラドックス」と呼んだ。

実験のひとつは、有名なクッキー実験だ。三人のグループのうち、一人にランダムにリーダーの役割が割り当てられる。作業中にクッキーの皿が運ばれてくる。すると、リーダー役を割り当てられた人間は、口を開けたままクッキーを頬張り、テーブルにクズを散らかす率が有意に高かった。わずか数十分前にランダムに「権力」を与えられただけの、ごく普通の人間が。

別の実験では、権力を付与された被験者は、他者の表情から感情を読み取る精度が低下した。共感の認知的基盤そのものが、権力の経験によって損なわれる。権力者は他者を手段として扱い始め、自らの衝動に従って行動し、リスクの高い選択をする傾向が強まった。

ケルトナーは、これを脳の「共感ネットワーク」の機能低下に類似した現象として記述している。頭部外傷によってこの領域に損傷を受けた患者と、権力を持った健常者が、驚くほど似た行動パターンを示すという。権力は、比喩的にではなく、機能的に共感を破壊するのかもしれない。

「偉大な人間はほぼ常に悪人である」

1887年、イギリスの歴史家アクトン卿は、聖公会の主教マンデル・クレイトンに宛てた書簡のなかで、あの有名な一節を書いた。

Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely. Great men are almost always bad men, even when they exercise influence and not authority.
権力は腐敗する傾向があり、絶対的な権力は絶対的に腐敗する。偉大な人間はほぼ常に悪人である。たとえその人間が行使しているのが強制力ではなく影響力であっても。

この言葉は道徳的な警句として消費されがちだが、ケルトナーの研究と並べて読むと、構造的な記述として読み直すことができる。

なぜ権力は腐敗するのか。ケルトナーが示した心理的メカニズムに加えて、組織論的な要因がある。権力者の周囲にはイエスマンが集積する。批判的なフィードバックは遮断される。情報は非対称になる。透明人間の倫理で検討したように、「見られていない」という状態は人間の道徳的判断を変容させる。権力者は、ある意味で、誰からも見られていない透明人間に近い。

アクトン卿が見抜いていたのは、これが個人の資質の問題ではないということだ。偉大な人間「でさえ」悪人になるのではない。偉大な人間「だからこそ」その落差は大きくなるのかもしれない。共感によって椅子を得た人間が共感を失ったとき、椅子だけが残る。

ジンバルドーの地下室、あるいは状況の力

1971年、スタンフォード大学の地下室で行われた実験は、権力の腐敗を最も劇的に可視化した事例として知られている。フィリップ・ジンバルドーが設計したこの実験では、一般の大学生がランダムに「看守」と「囚人」に振り分けられた。結果は周知の通りだ。看守役の学生たちは、わずか数日のうちに囚人を抑圧し、虐待的な振る舞いを始めた。

ただし、この実験には大きな注釈がつく。

2018年にフランスの研究者ティボー・ル・テクシエが詳細な調査を公表し、看守たちがジンバルドー自身から具体的な指示を受けていたこと、データの収集に偏りがあったこと、被験者が状況に「没入」していたとは言い難い証拠があることを明らかにした。BBCによる再現実験では、むしろ囚人が看守を圧倒するという逆の結果が出ている。査読のある追試で元の結果を再現した研究は、現時点では存在しない。

それでも、この実験が示唆する構造的な問いは残る。個人の性格や道徳的信条とは無関係に、「権力を持つ」という状況そのものが行動を変える可能性。実験の科学的妥当性がどうであれ、ケルトナーのより厳密な研究がその仮説を別の角度から裏づけている。

人を信じない設計図

権力のパラドックスに対して、人類がこれまでに考案した最も洗練された対応策がある。制度だ。

任期制。三権分立。報道の自由。選挙。弾劾制度。情報公開法。

これらの制度設計に共通する前提は、きわめて冷徹なものだ。権力者を信用しない、ということ。

民主主義は「良い指導者を選ぶ」制度ではない。「悪い指導者を排除する」制度だ、という見方がある。任期制は、権力者がどれほど優秀であっても、時間とともに共感が劣化するという前提の上に成り立っているのかもしれない。三権分立は、ひとつの権力が絶対化することを構造的に阻止する。報道の自由は、権力者を「見えている」状態に置き続けるための装置だ。

鎖を愛した動物で触れたように、自由と安全のあいだには常にトレードオフがある。権力の暴走を防ぐための監視は、同時に自由を制約する。しかし制度の設計者たちは、そのトレードオフを引き受けた。個人の美徳に依存する統治は、いずれ破綻するからだ。

「善人が権力を持てば問題は解決する」。この素朴な楽観を、ケルトナーの研究は実験室のなかで否定し、アクトン卿は書斎のなかで否定し、制度設計者たちは設計図のなかで否定した。しかし寛容という名の自壊装置が示すように、制度そのものもまた、内側からの侵食に対して完全に無防備ではない。

あなたの隣にある小さな玉座

権力のパラドックスは、国家元首や大企業のCEOだけに起きる現象ではない。

ゼミで発言力を持つ人間が、いつしか他のメンバーの意見を聞かなくなる。先輩と後輩のあいだで、先輩の側が後輩の不満に鈍感になる。教師と生徒のあいだで、教師の側が生徒の困惑を読み取れなくなる。親が子どもの言葉を遮り始める。最初の一言が全員の席を決めるとき、その一言を発した人間には、小さいけれど確実な権力が生じている。

SNSのフォロワー数が増えるにつれて、投稿者が「読者の反応」よりも「自分の発信」に意識を集中させる傾向は、仮説的ではあるものの、多くの人が実感として共有しているのではないか。スタートアップの創業者が、会社の成長とともに初期メンバーの声を聞かなくなるというパターンも、構造的にはケルトナーが記述したメカニズムとよく似ている。

権力のパラドックスは、権力が大きいか小さいかに関係なく作動するのかもしれない。いや、小さな権力のほうが厄介だという見方もできる。大きな権力には制度的な歯止めがある。小さな権力には、何もない。

そして、善も正義もない世界において、ハンナ・アーレントが「悪の陳腐さ」と呼んだものは、怪物の所業ではなく、普通の人間が思考を停止したときに起こる。権力のパラドックスは、その思考停止のための十分条件を構造的に供給し続ける。

朽ちていく椅子の上で

ケルトナーの研究が最も残酷に示しているのは、次の事実かもしれない。

権力を「正しく」行使し続けるためには、権力を得た瞬間に失われ始める能力を、意識的に維持し続けなければならない。しかし、その能力が失われていることに気づくための感度もまた、同時に失われている。

処方箋は存在しない。

制度は歯止めにはなるが、修復にはならない。誰も何も選んでいないのだとしたら、権力者が共感を「選んで」維持することもまた、幻想なのかもしれない。

あなたがいま誰かの話を聞けているのは、あなたがまだ何も持っていないからだ。

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