生きること

We die, and we know it. These entries sit with what that means: freedom, solitude, happiness, time, memory, choice. None of them arrive at comfort. They ask what it is to remain here, awake to the weight of it, without turning away.

倫理と思考実験

赦せないまま死ぬ

「許してあげなよ」と、誰かが軽々しく言う。まるで赦しが道徳的な義務であるかのように。まるでそれが簡単で、正しくて、誰にでもできることであるかのように。 でも、許せないものは許せない。それだけのことなのに、なぜかこの社会では、許せない側が責められる。許さない人間は心が狭い。許さない人間は前に進めていない。許さない人間は、どこか壊れている。 本当にそうだろうか。 そもそも、赦しとは何か。この問いに、哲学は驚くほど不穏な答えを用意している。いや、正確に言えば、答えなど用意していない。ただ、問いの底が抜けているということを、丁寧に証明してみせただけだ。 許すべきだという呪い 私たちは「許すこと」を美徳だと教えられて育つ。宗教は赦しを説き、道徳は寛容を称え、自己啓発本は「手放すこと」を勧める。許すことは成長であり、許さないことは停滞だと。 だが、この「許すべきだ」という圧力そのものが、ひとつの暴力ではないか。 傷ついた人間に向かって「許しなさい」と言うとき、それは傷の深さを無視している。許すかどうかは、傷ついた当人だけが決められることのはずだ。それなのに、

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

お金がなくなっても何も解決しない

「もしお金がなかったら、何をして生きる?」 飲み会で誰かがこの問いを放り投げると、場はにわかに活気づく。旅をする、絵を描く、田舎に引っ込む、カフェを開く。返ってくる答えはいつも美しくて、いつも少し嘘くさい。まるでお金だけが、僕たちと「本当の自分」のあいだに立ちはだかる唯一の壁であるかのように。 しかし、もう少し意地悪に考えてみたい。本当にお金が消えたら、あなたはその美しい答えどおりに生きるだろうか。 たぶん、生きない。 欲望は通貨を選ばない お金を「概念ごと」消すという思考実験は、見た目ほど簡単ではない。 お金そのものは、交換を効率化するための道具にすぎない。それが消えたところで、人が何かを欲しがるという事実は変わらない。通貨がなくなれば、別の何かが通貨の役割を担う。時間、信用、労力、あるいはもっと原始的な力関係。歴史を遡れば、貨幣が登場する以前から人間は交換し、蓄積し、奪い合ってきた。 だから「お金がなかったら」という仮定は、少し的を外している。問いの核はもっと奥にある。 いかなる制約もなかったとしたら、あなたは何をしますか。 これに即答できる人を、僕はあまり信用

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

現実を生きる感覚

今朝、目を覚ました。足が床に触れた。冷たかった。コーヒーを淹れた。湯気が立った。ここまで、何ひとつ疑わなかった。 それは正しい態度だ。疑う理由がないからではない。疑ったところで、何も変わらないからだ。 覚めたつもりの夢 夢の中で「これは現実だ」と確信していたことがあるだろう。 あの確信は、今のこの確信と、何が違うのか。構造的には何も違わない。夢の中にいるとき、あなたはそれが夢だと知らない。知らないまま、完璧に現実だと思っている。起きてから「あれは夢だった」とわかる。つまり、「現実である」という判断が正しかったかどうかは、常に事後的にしか確認できない。 今この瞬間が夢ではないという保証は、今この瞬間の中にはない。 「でも、夢にはどこか違和感がある」と思うかもしれない。色が曖昧だったり、場面が唐突に切り替わったり。しかし、その「違和感」に気づいたのは起きてからだ。夢の中では、どれほど奇妙な展開も完全に自然に受け入れていた。空を飛んでいても、死んだ人と話していても、何も疑わなかった。 現実が現実であるという感覚は、それ自体では何の証拠にもならない。夢がまさにそれを証明している

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

世界にあなたひとり、ぽつんと。

ある日、目が覚めたら、世界から自分以外の人間がすべて消えていた。 よくある思考実験だ。飲み会の余興にもなる。「好きなことをする」、「世界中を旅する」、「何もしない」。大抵はそんな答えが返ってくる。楽しそうだ。少なくとも最初の数日は。 でも考えてみてほしい。その「好きなこと」の大半は、他者がいてこそ成り立っていたのではないか。旅先の話を聞いてくれる誰か。おいしいものを一緒に食べる誰か。仕事を辞められる開放感だって、仕事という拘束があってこそ感じられる。他者が消えた瞬間、あなたの欲望のほとんどは行き場を失う。 この問いの核心は「何をするか」ではない。「あなたは、自分の生活のうち、どれだけを他者の存在に依存していたか」だ。 「好きなことをする」という幻想 最初の1週間はおそらく楽しい。誰の目も気にしなくていい。どこにでも入れる。何でも手に入る。でも2週目あたりから、奇妙な空虚がしのび寄ってくるはずだ。 やりたいことリストを全部消化した後に、何が残るだろう。 ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)の中で、人間の根本的な条件のひとつとして「複数性(plurality)」

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

何も確かではない

あなたは今、何かを「知っている」と思っている。そして昨日のことを「覚えている」と思っている。 残念だが、どちらもおそらく嘘だ。 知識と呼んでいるものの定義は、六十年以上前に壊れたまま誰にも修復されていない。記憶と呼んでいるものは、脳が毎回つくり直す即興のフィクションだ。あなたが「自分」だと思っているものは、その壊れた知識と捏造された記憶の上に建てられた、土台のない建物だ。 この先に救いはない。安心できる結論もない。あるのは、あなたがすでに薄々気づいていたかもしれない、いくつかの不愉快な事実だけだ。 再生という幻想 記憶は録画ではない。 1932年、イギリスの心理学者フレデリック・バートレットは著書 Remembering: A Study in Experimental and Social Psychology のなかで、記憶が過去の忠実な「再生(reproduction)」ではなく「再構成(reconstruction)」であることを実験的に示した。北米先住民の民話を被験者に読ませ、時間を置いてから語り直させたところ、被験者たちは物語を自分の文化的枠組みに合わせて変形

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

苦しみは何も教えない

「あの苦しみがあったから今の自分がある」。誰もが一度は口にし、一度は信じようとした言葉だ。美しい。感動的ですらある。そして、おそらく嘘だ。 少なくとも、嘘でないという保証はどこにもない。苦しみがあなたを「成長させた」のか、それとも苦しんだという事実をあとから意味のある物語に仕立て上げただけなのか。その区別を、あなたは本当につけられるだろうか。 正当化と合理化の見分けがつかない 「あの経験があったから強くなれた」。 心理学にはポスト・トラウマティック・グロース(Post-Traumatic Growth, PTG)という概念がある。逆境を経験した人間がその後に心理的な成長を遂げるという現象で、1990年代にテデスキとカルフーンによって提唱された。困難のあとに人が変わりうることは、実証的にも確認されている。 だが、ここで少し立ち止まりたい。 PTGは、「苦しみそのものに意味があった」とは言っていない。苦しみのあとに人が変化しうると言っているだけだ。つまり、成長は苦しみの結果であって、苦しみの目的ではない。この区別はささやかに見えて、実はとても大きい。 苦しんだ過去を振り返り

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

あなたは死ねない

目を閉じて、自分がいない世界を思い浮かべてほしい。 たぶん真っ暗な空間が見えている。何もない。音もない。ただ暗い。でも、その暗闇を「見ている」のは誰だ。自分がいないはずの世界を想像しているとき、そこにはまだ、想像している自分がいる。 自分の不在を想像することは、原理的にできない。想像という行為が、想像する主体を前提にしているからだ。あなたは自分の不在を、自分の存在を通じてしか思い描けない。矛盾というほど大げさなものではない。ただ、構造的に不可能だというだけの話だ。 紀元前3世紀、エピクロスは『メノイケウス宛書簡』の中でこの直観をごく簡潔に定式化した。「死はわれわれにとって何でもない。なぜなら、われわれが存在するとき死は現前せず、死が現前するときわれわれはもはや存在しないから」。善も悪も感覚の中にあり、死とは感覚の剥奪である以上、死はわれわれに関係しない。二千年以上経った今もなお、死の恐怖に対する最も端的な回答のひとつとされている。 理屈としては完璧だ。死は経験されない。経験されないものを恐れる合理的な根拠はない。 なのに怖い。 理性は納得している。感情は拒否している。このギ

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生きること

それでも明日の朝また幸せを冀う

幸福になりたい。たぶん、地球上のほぼすべての人間がそう思っている。少なくとも、そう思っていると思っている。 「幸福とは何か」と聞き返されると、言葉が詰まる。定義できないものを人生の目的に据えて、その達成に日々を費やしている。定義のないゴールに向かって走る競技を、ふつうは徒労と呼ぶ。 それでも走ることをやめられない。やめたら何が残るのかを知るのが怖いから。あるいは、走ること以外にやることがないから。 幸福を売る装置 1974年、哲学者ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで、ある思考実験を提示した。脳に電極をつなぎ、あらゆる望みどおりの経験を完璧にシミュレーションする機械がある。傑作小説を書き上げる体験。深い友情を築く体験。あなたが望むものは何でも、主観的にはまったく本物と区別がつかない形で体験できる。一生この機械に接続するか、それとも現実に留まるか。 ノージックの直感、そしておそらく多くの人の直感は「接続しない」だった。 奇妙な話だ。幸福が人生の目的なら、完璧な幸福を保証する装置を拒む理由がない。にもかかわらず、多くの人が拒む。シミュレーションの中で

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

赤を知らないし、何もわからない。

あなたは赤について、すべてを知っているとしよう。 波長。およそ625nmから740nm。網膜の錐体細胞が受容する光の範囲。視神経を通じて後頭葉の視覚野へ届く信号の流れ。赤という色の知覚が脳内で立ち上がるメカニズムのすべてを、あなたは完全に理解している。 でも、あなたはまだ赤を見たことがない。 知識は、あなたを救うだろうか。 完璧な牢獄 1982年、オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンは"Epiphenomenal Qualia"という論文で、ひとつの思考実験を提示した。後に"What Mary Didn't Know"(1986年)でさらに展開されたこの問いは、心の哲学における最も有名な議論のひとつになった。 メアリーは天才的な科学者だ。色覚に関する神経生理学を専門とし、色にまつわるあらゆる物理的事実を知り尽くしている。光の波長から、網膜上の化学反応、脳内の神経発火パターン、そして人が「赤い」と口にするまでの因果連鎖のすべてを。ただひとつ、条件がある。メアリーは生まれてからずっと、白黒の部屋で暮らしている。白黒のモニターだけを通じて世界を学び、色というものを一度も見

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生きること

終わらない今日

もし、明日が来なかったとしたら。 目覚まし時計が鳴る。昨日と同じ時間に。窓の外は昨日と同じ天気で、テレビからは昨日と同じニュースが流れている。何をしても、何を選んでも、翌朝にはすべてが巻き戻る。あなただけが覚えている。あなた以外の世界は、何ひとつ変わらない。 こういう想像をしたことがある人は、たぶん少なくないと思う。 映画『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day, 1993年)は、まさにこの状況を描いた作品だった。気象予報士のフィル・コナーズが、ペンシルベニア州パンクスタウニーで2月2日を何度も何度も繰り返す。最初はふざけて楽しみ、次に自暴自棄になり、やがて静かに変わっていく。誰にも覚えられない一日の中で、ピアノを練習し、人の名前を覚え、通りすがりの老人の世話を焼くようになる。 あの映画を観て、多くの人がたぶんこう思ったはずだ。「自分ならどうするだろう?」と。 もっと古い問い ただ、この思考実験には、映画よりずっと古いルーツがある。 ニーチェは1882年の『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft)第341節「最大の重し」で、こんな場面

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倫理と思考実験

もう一度、最初から

誰しも一度くらいは考えたことがあるだろう。もし時間を巻き戻して、人生の最初からやり直せるとしたら、何かを変えるだろうか、と。 「変える」と答えるなら 何かを変えたいと思うなら、それは今の自分がどこか最善ではないと感じていることになる。あの時こうしていれば。あの選択をしなければ。そう思うのは自然なことだし、誰にだってそういう瞬間はある。 でも、ひとつ変えたら、今の自分のどこかが消える。ある失敗がなければ出会わなかった人がいる。ある回り道がなければ気づかなかったことがある。ひとつの選択を変えることは、その先に続くすべてを引き換えにすることだ。 「変えない」と答えるなら それはそれで、なかなかの覚悟がいる。すべての苦しみ、すべての失敗、すべての退屈な午後を含めて、もう一度まるごと引き受けるということだから。 どちらに答えても、どこか居心地が悪い。この問いには、正解がない。 記憶の問題 ところで、やり直すとき、今の記憶は残るのだろうか。 もし記憶が残るなら、それは「やり直し」というより「二周目」だ。答え合わせのある人生。正解を知っているテストをもう一度受けるようなもので

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

現実か、あるいは

あなたが見ているものは、本物ではないかもしれない。 そしてそれを否定する材料を、あなたは何一つ持っていない。 いまこの瞬間、あなたの五感がとらえているすべて。画面の明るさ、椅子の硬さ、部屋の温度。それらが「実在する」と信じる根拠を、改めて問われたら、あなたは何と答えるだろう。「見えるから」「触れるから」「感じるから」。でも、それは「体験している」ということの言い換えにすぎない。しかもあなたの感覚が映し出しているものは、世界そのものですらない。体験が本物であることの証明には、まったくなっていない。 この問いは新しくない。何百年も前から哲学者たちが取り組み、そして誰もまともに解決できていない。 疑うことだけが確実だった 1641年、ルネ・デカルトは『省察』(Meditationes de Prima Philosophia) の中で、自分がこれまで信じてきたすべてを一度疑い尽くそうとした。感覚は錯覚を起こす。夢と覚醒の境界は曖昧だ。ならば、もっと徹底的に考えてみよう。全能の「悪霊」(genius malignus) がいて、空も大地も色も音もすべてを偽造し、自分を欺いているとし

By Sakashita Yasunobu