哲学を読む

A text was opened, and these entries follow where it leads. Bergson, Kant, Descartes, Locke, Beauvoir, Nietzsche, Merleau-Ponty, Russell. Not summaries, but readings: slower, more patient than paraphrase allows.

哲学を読む

聞いただけの美しさを抱いて眠った

「この映画は傑作だ」と、あなたが信頼する人間が言った。あなたはそれを信じた。でも、あなたはまだ観ていない。 信じたことと、観て震えたことは、同じだろうか。 たぶん違う。でも、何が違うのかを説明しようとすると、言葉が足りなくなる。足りないのは言葉だけではないのかもしれない。 「傑作だ」と言われた 「水はH₂Oである」と教えられて信じること。これには何の問題もない。自分で確かめなくても、証言による知識は十分に機能する。化学の教科書に書かれていることを、全員が実験室で再現する必要はない。 ところが、「あの映画は傑作だ」と教えられて信じることには、どこか奇妙な引っかかりがある。 この引っかかりについて、哲学者たちは驚くほど長いあいだ議論してきた。美的証言(aesthetic testimony)をめぐる論争だ。 2007年にロバート・ホプキンスが「悲観主義(pessimism)」と「楽観主義(optimism)」という用語で整理したこの問題の核心は、見かけ上は単純に見える。科学的事実は証言で伝達できるのに、なぜ美的判断は証言だけでは不十分に感じられるのか。 悲観主義者はこう主

By Sakashita Yasunobu

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学ぶためにはすでに知っていなければならない

何かを理解するためには、すでにそれを理解していなければならない。これは冗談ではない。2400年前にプラトンが記録し、20世紀にヤーッコ・ヒンティッカが認識論的論理学の道具立てで精密化した、知ることについてのもっとも不愉快な循環だ。 あなたがこの記事を読み終えたとき、何かを「学んだ」と感じるかもしれない。しかしもし学んだのだとすれば、あなたはここに書かれている概念をすでにある程度知っていたはずだ。まったく知らなかったなら、文章を理解できなかっただろう。知っていたなら、読む必要はなかったはずだ。 どちらに転んでも、学びという行為の足場が崩れる。 メノンの罠 紀元前4世紀、プラトンの対話篇『メノン』で、メノンはソクラテスにこう問うた。「あなたがまったく知らないものを、どうやって探求するのですか。探し出したとしても、それが探していたものだとどうやってわかるのですか」。この問いは素朴に見えて、底が抜けている。知っているものは探す必要がない。知らないものは探し方がわからない。仮に偶然見つけたとしても、それが「探していたもの」だと認識する手段がない。認識するには、すでに知っていなければなら

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

血のついた旗で手を拭く

暴力は悪い。それはおそらく、地球上のほぼすべての道徳体系が同意する数少ない命題のひとつだ。では、悪を止めるための暴力は。不正を前にして振り下ろされる拳は、それでもなお悪か。 もちろん悪だ。ただし「正しい」悪だ。 そうやって人類は何千年も、血のついた手を正義の旗で拭いてきた。 正義のために暴力を行使する瞬間、私たちは暴力を否定しながら暴力を肯定するという不可能な綱渡りをしている。そしてこの綱は、渡り始めた瞬間に消える。「暴力は悪だ」という原則を守るために暴力を使うとき、原則そのものが足元から崩れ落ちる。あとに残るのは「どの暴力が正しいか」を決める権力闘争だけだ。善も正義もないと言い切ることは簡単だが、それでも人は殴り返さずにいられない。 正しい戦争という自己欺瞞 「正しい暴力」の歴史は古い。アウグスティヌスは4世紀にすでに「正戦論」を整えていた。不正な侵略への抵抗、比例性の原則、最後の手段としてのみ許される武力行使、非戦闘員の保護。トマス・アクィナスがこれを精緻にし、20世紀にはマイケル・ウォルツァーが『正しい戦争と不正な戦争』で現代の国際法にまで接続した。 条件は立派だ。

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

穴は開いたまま誰も埋めない

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。 この問いに答えた人間は、まだいない。たぶん、これからもいない。1714年、ライプニッツがこの問いを定式化してから3世紀が過ぎた。物理学者が宇宙の始まりを計算し、神学者が第一原因を語り、論理実証主義者が「無意味だ」と宣告した。それでも問いは閉じなかった。ハイデガーはこれを「形而上学の根本問題」と呼んだけれど、根本問題と名付けたところで根本が見えるわけではない。 あなたは今日も、理由なく存在している。 すべてには理由がある、はずだった ライプニッツの充足理由律(Principle of Sufficient Reason)は、こう主張する。 いかなる事実も、それがそうであり他でないための十分な理由なしには、成立しえない。 (『モナドロジー』第32節、1714年) 美しい原理だと思う。あらゆるものに理由がある。この椅子がここにあるのにも、この惑星が青いのにも。世界は説明可能な場所であってほしいという願いを、ライプニッツは原理にまで昇華した。 ところが、この原理を「存在そのもの」に適用した途端、足場が崩れる。 「存在全体」の理由は何か

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

最後の人間が最後の木の前に立つ

地球最後の人間が、最後の一本の木の前に立っている。核戦争はとうに終わり、他の生き残りはいない。動物もいない。未来世代も来ない。この人間が斧を振り上げて、その木を切り倒したとする。誰も困らない。誰も泣かない。苦しむ存在はどこにもいない。それでもその行為は「悪い」のか。 もし直感が「悪い」と囁くなら、あなたはすでに厄介な場所に立っている。なぜなら、その直感を正当化できる倫理学を、西洋哲学はほとんど持っていなかったからだ。 ラウトリーの午後 1973年、オーストラリアの哲学者リチャード・ラウトリー(のちにリチャード・シルヴァンと改名)が、ブルガリアの世界哲学会議でこの思考実験を提示した。論文のタイトルは "Is There a Need for a New, an Environmental, Ethic?" だった。そのタイトル自体がすでに答えを含んでいるようにも見えるが、ラウトリーの論証は予想よりずっと慎重だった。 彼の狙いは、既存の倫理学の骨格を取り出すことにあった。功利主義は快苦の総量で行為を評価するが、苦しむ存在がゼロなら計算の入力がない。カント倫理学は理性的行為者の尊厳

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

清い手では誰も救えなかった

ジャン=ポール・サルトルが1948年に書いた戯曲『汚れた手』で、ウドレールという革命家がこう叫ぶ。「おれの手は肘まで汚れている。糞と血のなかに肘まで突っ込んだのだ。それがどうした。お前は、手袋をはめたまま何かを変えられると本気で思っているのか」 25年後、政治哲学者マイケル・ウォルツァーがこの問いを学術の俎上に載せた。1973年の論文 "Political Action: The Problem of Dirty Hands"。ウォルツァーが描いた風景は単純で、だからこそ逃げ場がない。テロリストが爆弾を仕掛けた。指導者は捕虜を拷問すれば場所を聞き出せる。拷問は道徳的に悪い。しかし拷問しなければ市民が死ぬ。どちらを選んでも手は汚れる。 「正しい選択肢」が消えた場所で、人はどう振る舞うのか。あるいは、振る舞えるのか。 この問いには答えがない。ないまま、ここに書く。 ウドレールの肘まで ウォルツァーの思考実験を、もう少しだけ丁寧に追ってみる。 ある都市で時限爆弾が仕掛けられた。爆発すれば多くの市民が死ぬ。当局は容疑者を拘束している。この容疑者を拷問すれば、爆弾の位置を突き止めら

By Sakashita Yasunobu

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目が信じたものを名前が裏切った

完璧な贋作がある。 筆致、色彩、構図、ひび割れの一本一本まで、オリジナルと区別がつかない。世界最高の鑑定家が「傑作だ」と唸り、美術館の壁にかけられ、数十億の値がつく。そしてある日、それが贋作だと判明する。絵は一ミリも変わっていない。あなたの網膜に映る像は、昨日と一ピクセルも違わない。しかし価値はゼロになる。 何が変わったのか。 絵は同じだ。色も線も、光の反射も。変わったのは「誰が描いたか」という、目には見えない情報だけだ。もし美しさが見えるものの中にあるなら、この崩壊は説明がつかない。もし美しさが見えないものの中にあるなら、私たちはいったい何を「見て」いたのだろう。 見分けがつかない二枚の絵 ネルソン・グッドマンは1968年の著書『芸術の言語(Languages of Art)』で、美学に不穏な問いを投げ込んだ。 二つの絵画がある。一方はレンブラントの真作、もう一方はそれと視覚的に完全に同一の贋作。現在のあなたには、どちらがどちらか区別できない。この二つの絵に美的な違いはあるか。 素朴に考えれば、答えはノーだろう。見た目が同じなら、美的経験も同じはずだ。

By Sakashita Yasunobu

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存在するものは何もなかった

あなたの目の前に机がある。 そう思っている。木の板と四本の脚。引き出しの中には文房具。表面にはコーヒーの染み。それを「机」と呼ぶことに、誰も疑問を持たない。 だが、メレオロジカル・ニヒリズムはこう言う。机は存在しない。 板も脚も引き出しも存在しない。あるのは素粒子の配列だけだ。「机」とは、ある特定のパターンで並んだシンプルズ(それ以上分割できない最小単位)に、人間が貼りつけたラベルにすぎない。複合的な物体は存在しない。部分が集まって「一つのもの」を構成することは、決してない。 これはメタファーではない。文学的な誇張でもない。分析哲学の中で真剣に擁護されている存在論的立場だ。そしてこの立場を受け入れると、哲学の古典的パラドックスのいくつかが、問いとして成立しなくなる。 問いは最初から壊れていた メレオロジカル・ニヒリズムが応答しようとしている問いがある。特殊構成問題(Special Composition Question)と呼ばれるものだ。 ピーター・ヴァン・インワーゲンが1990年の Material Beings で定式化したこの問いは、こう尋ねる。「二つ以上のもの

By Sakashita Yasunobu

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永遠にあと半分の距離を走る

あなたはゴールに近づいている。あと半分。あとその半分。あとそのまた半分。残り距離は限りなくゼロに近づく。けれどゼロにはならない。永遠に、あと少し。2500年前のギリシャ人がこの構造に気づいたとき、彼はたぶん笑っていたと思う。あなたの人生が、亀を追いかけるアキレスとまったく同じ構造をしているのだと。 紀元前5世紀、エレアのゼノンは運動が不可能であることを論証しようとした。論証は失敗した。しかしその失敗が2500年間、哲学者と数学者の喉に刺さった小骨のように残り続けている。成功よりも長持ちする失敗というものがある。 亀はまだ先にいる もっとも有名なのは「アキレスと亀」だ。俊足のアキレスが、先にスタートした鈍足の亀を追いかける。アキレスが亀のいた地点に到達すると、亀はわずかに前進している。その新しい地点にアキレスが到達すると、亀はまたわずかに前進している。追いかけっこは無限に続く。論理的には、アキレスは永遠に亀に追いつけない。 現実のアキレスは10秒もあれば亀を追い越す。しかしゼノンの問いは「追いつけるか」ではない。「無限に分割された距離を、有限の時間でどうやって通過するのか」だ。

By Sakashita Yasunobu

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三十七兆の欠片では足りない

あなたの体は約37兆個の細胞でできている。そのひとつひとつに、ほんのわずかな「感じ」があるとしよう。痛みとも呼べない微かな何か。光とも呼べない微かな何か。では、その37兆の「微かな何か」を全部足したら、今あなたが見ているこの文字の白さ、画面の光、指先の温度、そして「これを読んでいる私がいる」という確信になるだろうか。 ならない。 少なくとも、なぜなるのか誰にも説明できない。これが結合問題(Combination Problem)と呼ばれる哲学的難問であり、意識を語るすべての試みが最終的にぶつかる壁のひとつだ。 壁の前の壁 意識にはすでに有名な難問がある。デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化した「意識のハードプロブレム」。物質的な過程、つまりニューロンの発火や電気信号のやりとりが、なぜ「体験」を伴うのか。脳の中で起きていることを物理的にすべて記述できたとしても、そこに「赤の赤さ」や「痛みの痛さ」が生じる理由は説明されない。機能は説明できる。しかし「感じ」は説明できない。 これに対して、いくつかの立場がある。物理主義は、意識は物質の働きから生じると主張する。だが「

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緑がずっと緑である保証はない

エメラルドは緑だ。これまでずっと緑だった。だから明日も緑だろう。 その「だから」の根拠を、あなたは説明できない。もしできると思ったなら、ネルソン・グッドマンの名前を覚えておいたほうがいい。1955年に彼が書いた数十ページが、帰納法という人類最大の知的習慣の足元に、修復不能な亀裂を入れた。 エメラルドの裏切り 話はシンプルだ。 あなたは1000個のエメラルドを観察した。すべて緑だった。そこから「すべてのエメラルドは緑である」と帰納する。合理的に見える。 グッドマンは「grue(グルー)」という述語を発明した。定義はこうだ。ある時点tより前に観察されたものは緑で、tより後に観察されたものは青。この述語のもとでは、あなたがこれまで見た1000個のエメラルドは、すべてグルーでもある。tより前に観察され、すべて緑だったのだから。 問題が生じる。同じ証拠が、「すべてのエメラルドは緑である」と「すべてのエメラルドはグルーである」を等しく支持している。前者が正しければ明日のエメラルドも緑だが、後者が正しければ明日のエメラルドは青い。帰納法は両方を同じ力で推している。しかし両方が正しいこと

By Sakashita Yasunobu

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雨の中で傘を持たない理由

「雨が降っている。しかし私はそれを信じていない」 この文には、論理的な矛盾がない。雨が降っていることと、話者がそれを信じていないことは、同時に真でありうる。人は自分の信念について間違うことがある。天気についても間違うことがある。両方が真であるような世界は、何も不思議ではない。 それなのに、この文を口に出した瞬間、何かがおかしくなる。 G.E.ムーアが1942年にケンブリッジ道徳科学クラブで発表したこの観察を、ウィトゲンシュタインは「哲学における最も重要な発見のひとつ」と呼んだ。大げさに聞こえるかもしれない。たかが一文だ。でもこの一文は、私たちが「信じる」とか「主張する」とか「知っている」と言うとき、裏側で何が起きているのかを、静かに、しかし徹底的に暴露する。 矛盾していないのに壊れている ムーアの文が奇妙なのは、それが論理的に矛盾しているからではない。三人称に変換すれば何も問題は起きない。「彼は雨が降っていると言ったが、それを信じていなかった」。ただの報告だ。嘘をついていたのかもしれないし、混乱していたのかもしれない。いずれにせよ、聞いた側が驚くことはあっても、文そのものが

By Sakashita Yasunobu