届かない一言

もし過去の自分に一言だけ伝えられるとしたら、何を言うか。

深夜のSNSで、あるいは終電を逃した夜のファミレスで、誰かがこの問いを口にする。哲学書の一節のような顔をして現れるが、正体はレシートの裏に書き殴られるたぐいの問いだ。誰でも答えられそうな気がする。でも、答えようとした瞬間に指の間からすり抜ける。

この問いに正面から向き合った時点で、あなたはもう袋小路の中にいる。

届いた瞬間に消える手紙

仮に、何らかの方法で過去の自分にメッセージを送れたとしよう。

もしその一言が効いて、過去の自分が行動を変えたとする。そうすると、今の自分はもう今の自分ではなくなる。今の自分が変われば、その一言を送ろうとした理由も、送ったという事実そのものも、まるごと消えてしまうかもしれない。

時間旅行の思考実験に「祖父のパラドックス」と呼ばれる有名な構造がある。過去に遡って自分の祖父の存在を阻止すれば、自分は生まれない。生まれなければ過去に遡ることもできない。原因が結果を打ち消し、結果が原因を打ち消す自己矛盾のループだ。

この問いにも、同じ構造がそっと忍び込んでいる。伝えたい。でも、伝わったら、伝えた自分がいなくなる。

手紙は届いた瞬間に、差出人ごと消える。

何歳の他人に話しかけているのか

それでも問いを続けるとする。過去の「自分」とは、いつの自分のことだろう。

5歳に伝えるのと15歳に伝えるのでは、一言の中身はまるで変わる。そしてその選択は、過去の自分を思いやっているようでいて、実のところ今の自分が何を重要だと感じているかを映し出しているにすぎない。

ここで妙なことに気づく。過去の自分に語りかけようとするとき、本当にその相手を「自分」だと思えているだろうか。5歳の自分。記憶はおぼろげで、価値観も世界の見え方もまるで違う。共有しているのは、名前と、途切れていない身体の歴史くらいのものだ。

過去の自分は、限りなく他者に近い。

それなのに「自分」と呼び続ける。連続性という物語で、途切れそうな何かをかろうじてつなぎとめている。その糸が実はとっくに切れていたとしたら、今あなたが語りかけようとしている相手は、いったい誰なのか。

過去の自分は聞かない

仮にメッセージが物理法則を無視して届いたとして、過去の自分はそれを聞くだろうか。

逆を考えてみればわかる。今この瞬間、10年後の自分からメッセージが届いたとする。「その選択をやめろ」「もっと遊べ」「黙って走れ」。どれほど切実な忠告であっても、素直に従えるだろうか。

おそらく無理だ。未来の自分がそれを言う理由を、今の自分には理解できない。経験していないことの重みは、言葉では渡せない。

キルケゴールは1843年の日記にこう書いている。「哲学が言うように、人生は後ろ向きに理解されなければならない、というのはまったくその通りだ。しかしそのとき人はもう一つの命題を忘れている。人生は前に向かって生きなければならない、ということを」。

理解は、いつも遅れてやってくる。助言が届くべきタイミングとは、まさにその助言の意味を理解できないタイミングのことだ。だから届かない。届いても届かない。

一言の傲慢

問いの制約に目を向けてみる。「一言だけ」。

この制約がなければ、そもそも問いとして成り立たない。いくらでも伝えていいと言われたら、思考は際限なく散らかって焦点を失う。一言という縛りが、人生のなかで何が本質だったのかを選び取ることを強いる。

しかし、その「選び取る」行為は、今の自分というフィルターをすでに通過している。

心理学に後知恵バイアスと呼ばれる認知の歪みがある。結果を知ってから振り返ると、その結果があたかも予測できたかのように錯覚してしまう傾向のことだ。「あのとき別の道を選んでいれば」という考えは、別の道の先をすでに知っているからこそ浮かぶ。渦中にいた自分に、その視界はなかった。

一言を選ぶ行為は、自己理解のように見えて、実は今の自分のバイアスを過去に投影する行為なのかもしれない。助言のふりをした、現在の自己弁護なのかもしれない。

後悔が知恵の顔をする

この問いに向き合うとき、ほぼ反射的に後悔が浮かぶ。あのときこうしていれば。あの選択をしなければ。過去の自分への一言は、たいていの場合、後悔の圧縮データだ。

ただ、後悔と知恵は似て非なるものだ。

後悔は「あの選択は間違いだった」と過去を裁く。知恵は「あの経験を通じて学んだ」と過去を引き受ける。向きが逆だ。後悔は過去を変えたがり、知恵は過去をそのまま抱える。

この問いに答えようとする衝動は、知恵ではなく後悔の側に立っている。変えられないものを変えたいという、不可能な欲望だ。

そしてその欲望が不可能であることを、問うている本人もどこかで知っている。知っていて、それでも問わずにいられない。それが後悔というものの厄介なところだ。

読みたくない返信

ここで問いをひっくり返してみる。

過去の自分から今の自分に、何か言いたいことがあるとしたら。

15歳の自分が今の自分を見たら、何を思うだろう。期待通りだろうか。失望するだろうか。そもそも、想像すらしなかった場所にいることに戸惑うだろうか。

もし過去の自分が「そうはなりたくなかった」と言ったとしたら、どう返すのか。

この問いは、最初の問いよりもずっと居心地が悪い。過去の自分に何を伝えるかは、今の自分がコントロールできる。都合のいい言葉を選べる。しかし、過去の自分が何を言うかはコントロールできない。忘れてしまった約束。いつの間にか手放した理想。気づかないうちに丸くなった角。

過去の自分は、今の自分が目を逸らしているものを、まっすぐ見ているかもしれない。

宛先も差出人もない

この問いには答えが出ない。出るはずがない。答えを出すための問いではないのだから。

伝えたところで届かない。届いたところで聞かない。聞いたところで理解しない。理解したところで、理解した瞬間にすべてが組み変わる。

しかし、本当に考えるべきことは、もっと手前にあるのかもしれない。

「過去の自分」という存在を仮定できるということは、今の自分と過去の自分の間に何らかの同一性があると信じていることになる。でもその同一性は、どこにあるのか。名前が同じで、記憶がつながっていて、身体が連続している。それだけで「同じ人間」と言い切れるのか。

それとも、「自分」とは、連続しているという信念そのもののことなのか。

もしその信念が幻想だとしたら。過去の自分に一言伝えたいという願いは、存在しない相手に宛てた、存在しない差出人からの手紙ということになる。

宛先も差出人もない手紙。それでも書きたいと思うこの衝動は、いったい何なのだろう。

そして、もしあなたが今この問いに何かしらの答えを持っているとしたら。

その答えは、過去の自分に向けたものではなく、今のあなた自身に向けられている。ただ、たぶん、今のあなたも聞かない。


関連記事

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu