お金がなくなっても何も解決しない

「もしお金がなかったら、何をして生きる?」

飲み会で誰かがこの問いを放り投げると、場はにわかに活気づく。旅をする、絵を描く、田舎に引っ込む、カフェを開く。返ってくる答えはいつも美しくて、いつも少し嘘くさい。まるでお金だけが、僕たちと「本当の自分」のあいだに立ちはだかる唯一の壁であるかのように。

しかし、もう少し意地悪に考えてみたい。本当にお金が消えたら、あなたはその美しい答えどおりに生きるだろうか。

たぶん、生きない。

欲望は通貨を選ばない

お金を「概念ごと」消すという思考実験は、見た目ほど簡単ではない。

お金そのものは、交換を効率化するための道具にすぎない。それが消えたところで、人が何かを欲しがるという事実は変わらない。通貨がなくなれば、別の何かが通貨の役割を担う。時間、信用、労力、あるいはもっと原始的な力関係。歴史を遡れば、貨幣が登場する以前から人間は交換し、蓄積し、奪い合ってきた。

だから「お金がなかったら」という仮定は、少し的を外している。問いの核はもっと奥にある。

いかなる制約もなかったとしたら、あなたは何をしますか。

これに即答できる人を、僕はあまり信用していない。

「やりたいこと」は幻肢痛に似ている

「好きなことで生きていく」。ここ十年ほどで何度聞いたかわからないフレーズだ。

けれど、ふと立ち止まって考える。その「好きなこと」は、どこから来たのだろう。本当に自分の内側から湧いたものなのか。それとも「やりたいことがある人間は輝いている」というメッセージを浴び続けた結果、自分にもあるはずだと思い込んでいるだけなのか。

失われた手足が痛む現象を幻肢痛と呼ぶ。持ったことのない「やりたいこと」がときどき疼くのは、それに似ている。存在しないものの不在が、妙にリアルに感じられる。

メルロ=ポンティ『知覚の現象学』と身体の問い
📝本稿は筆者が大学の授業で学んだ内容をもとに、独自の考察を加えて再構成したものである。 はじめに 本稿が検討する問いは「身体は〈物〉なのか」である。 この問いに対する素朴な答えは「然り」であろう。身体は物質から構成されており、物理法則に従う。医学は身体を物質的対象として扱うことで成功を収めてきた。しかし、この素朴な答えに対して、メルロ=ポンティは異議を唱える。 ただし彼の議論を追う前に、問いそのものを吟味する必要がある。「身体は物か」と問うとき、私たちはすでに「物」と「物でないもの(意識)」という区別を前提としている。さらに、フランス語で身体を表す語 corps は同時に「物体」をも意味し、objet は「対象」であると同時に「客観」でもある。「身体は物か」という問いは、言語のレベルですでに物と身体を同一視する構造を含んでいる。メルロ=ポンティによれば、この区別自体が科学的抽象の産物であり、「生きられた世界」の上に構成されたものである。したがって本稿の課題は、「物か否か」

身体に関する拙稿だ

カール・マルクスは1844年の草稿で、資本制における労働者の状態を「疎外」と呼んだ。労働が生存の手段に成り下がったとき、人は自分が作るものからも、作る行為そのものからも、自分自身からも遠ざかる。働くことが「生きるため」に回収された瞬間、そこに自己表現の余地はほとんど残らない。

ここで皮肉なのは、お金を消しても疎外が消える保証はどこにもないということだ。通貨がなくとも「食べなければ死ぬ」という事実は残る。パンを焼くのが好きだった人間が、パンを焼かなければ生きられない世界に置かれたとき、それは自己表現か、それとも名前を変えた強制か。

何もしない自由という名の荒野

ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)で、人間の営みを三つに分けた。「労働」は生命維持のために繰り返される営み。「仕事」は世界に残る持続的な何かを作る行為。「活動」は他者のあいだに身を置き、言葉と行為を通じて自分を現す行為。

お金を取り除くと、自分の日々がこの三つのどれに偏っているかが露わになる。多くの場合、答えは「労働」だ。月曜から金曜まで生存を維持する反復

しかし、仮に労働から完全に解放されたとして、人は「仕事」や「活動」に向かうだろうか。何かを作りたいという衝動や、他者と関わりたいという欲求は、自分で思っているほど強くないかもしれない。

むしろ、多くの人が向かうのは純粋な余暇ではないか。動画、散歩、昼寝。最初の一週間は天国だろう。三ヶ月後はどうだろう。一年後は。

何もしない自由は、しばらくすると何もできない空虚と見分けがつかなくなる

FIREの灰をかき分けて

この思考実験を、現実に近いかたちで実践している人々がいる。Financial Independence, Retire Early。経済的自立を達成し、若くして労働市場から降りる生き方だ。

彼らの語る経験は示唆に富む。「自由になったはずなのに、何をすればいいのかわからない」。経済的な制約を取り払った先にあったのは、想像していた無限の可能性ではなく、輪郭のない巨大な空白だったという声は少なくない。

旅も、趣味も、始めてみれば日常になる。日常になった瞬間、それはもう「やりたかったこと」ではなく、ただ「やっていること」に変わる。自由の先にも退屈は待っている。

帰り道に聞いてみるといい

ここまで来ると、もう「お金がなかったら」という仮定はどこかに消えている。

残っているのは、もっと単純で、もっと厄介な問いだ。

義務と報酬を全部取り除いたとき、そこに何が残るか。「やりたいこと」と「お金になること」が一致するのは、幸運なのか、努力なのか、幻想なのか

答えはたぶん出ない。出ないまま抱えていくしかない種類の問いだ。

ただ、一つだけ。給料がゼロになった明日、あなたが同じ場所に向かわないと即答できるなら、今そこにいる理由は、思っているよりずっと脆い。

Read more

暇が怖いだけ

今日あなたが「忙しい」と口にした回数を数えてみるといい。三回を超えていたら、それはもう事実の報告ではない。呪文だ。唱え続けることで、自分に存在価値があると確認するための。 忙しさは現代における最も手軽な自己証明になった。忙しくしていれば、少なくとも何かをしていることにはなる。何かをしていれば、生きている意味を問わなくて済む。逆に言えば、暇になった途端に、その問いが戻ってくる。だから人は忙しくする。忙しくあろうとする。忙しいと言いたがる。鎖を愛した動物のように、自分でかけた拘束を手放せない。 ここに一つ、居心地の悪い問いを置いておく。あなたが一日のなかで一番多くの時間を費やしていることは、あなたが一番大切にしていることと一致しているか。一致していないとしたら、その時間は誰のものなのか。 守られない時間 約二千年前、ストア派の哲学者セネカは『人生の短さについて』でこう嘆いた。人は財産や金のことになると吝嗇になるのに、時間を浪費することには驚くほど無頓着だ、と。時間こそ、最も惜しむべきものであるにもかかわらず。 この指摘は二千年経っても古びていない。むしろ悪化している。 財布か

By Sakashita Yasunobu

意味という病

あなたの人生に意味があるかどうか、宇宙は一度も気にしたことがない。 太陽は46億年前から燃えている。地球は回り続けている。そのどこにも、あなたの存在を前提とした設計図はない。もし明日、人類がまるごと消えたとしても、星は瞬き続ける。海は満ちて引く。何も変わらない。 それなのに、人は意味を求める。仕事に意味を、人間関係に意味を、生きていること自体に意味を。朝起きるたびに、意識するにせよしないにせよ、「なぜ」という問いがどこかで回っている。 これは病だと思う。 治す方法があるのかどうかも分からない、厄介な病だ。 観客のいない劇場 一つ、思考実験をしてみる。 もし宇宙のどこにも、人間以外の知的生命体がいなかったとしたら。誰も人類の存在を知らず、誰も観察しておらず、誰も記録していなかったとしたら。人間がこの星の上で営んできたすべてのこと、文明、芸術、戦争、愛、それらに意味はあるだろうか。 直感的には「ある」と言いたくなる。でも、その「ある」の根拠を言語化しようとすると、途端に足元が崩れる。 意味というのは、誰かがそれを認識して初めて成立するものだという立場がある。であれば、宇

By Sakashita Yasunobu

優しい人から壊れる

友人が泣いている。あなたはその隣に座って、背中をさする。言葉が見つからないまま、ただそこにいる。胸が詰まる。相手の苦しみが、自分の胸にも流れ込んでくるような気がする。 それは美しい光景だ、と誰もが言う。 ただ、もう少しだけ先を考えてみてほしい。あなたが感じているその痛みは、本当に相手の痛みだろうか。それとも、相手の痛みに触発された、あなた自身の別の何かだろうか。そして、その区別がつかなくなったとき、壊れるのはどちらだろう。 スポットライトの外は暗い 共感には奇妙な性質がある。近くにあるもの、目に見えるもの、名前と顔があるものに、不釣り合いなほど強く反応する。 イェール大学の心理学者ポール・ブルームは2016年の著書 Against Empathy で、共感をスポットライトに喩えた。照らされた一点だけが鮮やかに浮かび上がり、その外側は真っ暗なままだ。一人の子どもが井戸に落ちれば世界中が涙を流すが、統計の中で消えていく数万の子どもたちには何も感じない。 ブルームの指摘はさらに厄介な方向へ進む。共感はバイアスに満ちている。自分に似た人、魅力的な人、同じ民族や国籍の人に対して、よ

By Sakashita Yasunobu

何も起きなかった日

先月の火曜日に何をしていたか、思い出せるだろうか。 おそらく思い出せない。それは記憶力の問題ではなく、何も起きなかったからだ。何も起きなかった日は記憶に残らない。記憶に残らない日は、振り返ったとき、最初からなかったのと区別がつかない。 人生の大半は、こういう日でできている。 溶けていく曜日 子供の頃の夏休みは果てしなく長かった。35日間が、体感では半年くらいあった。ところが大人になると、半年が体感で35日くらいになる。時間の流れ方が、どこかで反転している。 神経科学者のデイヴィッド・イーグルマンは、この現象を記憶の密度から説明している。脳は新しい経験に遭遇すると、より多くの情報を符号化する。記憶が密であれば、あとから振り返ったとき、その期間は長く感じられる。逆に、毎日が同じパターンの繰り返しなら、脳は記録すべきものをほとんど見つけられない。記憶はスカスカになる。スカスカの記憶を振り返ると、時間はあっという間に過ぎたように感じる。 つまりルーティンは、主観的な人生を縮めている。比喩ではない。知覚の構造として、そうなっている。毎日同じ道を歩き、同じ時間に同じ席に座り、同じもの

By Sakashita Yasunobu