お金がなくなっても何も解決しない
「もしお金がなかったら、何をして生きる?」
飲み会で誰かがこの問いを放り投げると、場はにわかに活気づく。旅をする、絵を描く、田舎に引っ込む、カフェを開く。返ってくる答えはいつも美しくて、いつも少し嘘くさい。まるでお金だけが、僕たちと「本当の自分」のあいだに立ちはだかる唯一の壁であるかのように。
しかし、もう少し意地悪に考えてみたい。本当にお金が消えたら、あなたはその美しい答えどおりに生きるだろうか。
たぶん、生きない。
欲望は通貨を選ばない
お金を「概念ごと」消すという思考実験は、見た目ほど簡単ではない。
お金そのものは、交換を効率化するための道具にすぎない。それが消えたところで、人が何かを欲しがるという事実は変わらない。通貨がなくなれば、別の何かが通貨の役割を担う。時間、信用、労力、あるいはもっと原始的な力関係。歴史を遡れば、貨幣が登場する以前から人間は交換し、蓄積し、奪い合ってきた。
だから「お金がなかったら」という仮定は、少し的を外している。問いの核はもっと奥にある。
いかなる制約もなかったとしたら、あなたは何をしますか。
これに即答できる人を、僕はあまり信用していない。
「やりたいこと」は幻肢痛に似ている
「好きなことで生きていく」。ここ十年ほどで何度聞いたかわからないフレーズだ。
けれど、ふと立ち止まって考える。その「好きなこと」は、どこから来たのだろう。本当に自分の内側から湧いたものなのか。それとも「やりたいことがある人間は輝いている」というメッセージを浴び続けた結果、自分にもあるはずだと思い込んでいるだけなのか。
失われた手足が痛む現象を幻肢痛と呼ぶ。持ったことのない「やりたいこと」がときどき疼くのは、それに似ている。存在しないものの不在が、妙にリアルに感じられる。

身体に関する拙稿だ
カール・マルクスは1844年の草稿で、資本制における労働者の状態を「疎外」と呼んだ。労働が生存の手段に成り下がったとき、人は自分が作るものからも、作る行為そのものからも、自分自身からも遠ざかる。働くことが「生きるため」に回収された瞬間、そこに自己表現の余地はほとんど残らない。
ここで皮肉なのは、お金を消しても疎外が消える保証はどこにもないということだ。通貨がなくとも「食べなければ死ぬ」という事実は残る。パンを焼くのが好きだった人間が、パンを焼かなければ生きられない世界に置かれたとき、それは自己表現か、それとも名前を変えた強制か。
何もしない自由という名の荒野
ハンナ・アーレントは『人間の条件』(1958年)で、人間の営みを三つに分けた。「労働」は生命維持のために繰り返される営み。「仕事」は世界に残る持続的な何かを作る行為。「活動」は他者のあいだに身を置き、言葉と行為を通じて自分を現す行為。
お金を取り除くと、自分の日々がこの三つのどれに偏っているかが露わになる。多くの場合、答えは「労働」だ。月曜から金曜まで生存を維持する反復。
しかし、仮に労働から完全に解放されたとして、人は「仕事」や「活動」に向かうだろうか。何かを作りたいという衝動や、他者と関わりたいという欲求は、自分で思っているほど強くないかもしれない。
むしろ、多くの人が向かうのは純粋な余暇ではないか。動画、散歩、昼寝。最初の一週間は天国だろう。三ヶ月後はどうだろう。一年後は。
何もしない自由は、しばらくすると何もできない空虚と見分けがつかなくなる。
FIREの灰をかき分けて
この思考実験を、現実に近いかたちで実践している人々がいる。Financial Independence, Retire Early。経済的自立を達成し、若くして労働市場から降りる生き方だ。
彼らの語る経験は示唆に富む。「自由になったはずなのに、何をすればいいのかわからない」。経済的な制約を取り払った先にあったのは、想像していた無限の可能性ではなく、輪郭のない巨大な空白だったという声は少なくない。
旅も、趣味も、始めてみれば日常になる。日常になった瞬間、それはもう「やりたかったこと」ではなく、ただ「やっていること」に変わる。自由の先にも退屈は待っている。
帰り道に聞いてみるといい
ここまで来ると、もう「お金がなかったら」という仮定はどこかに消えている。
残っているのは、もっと単純で、もっと厄介な問いだ。
義務と報酬を全部取り除いたとき、そこに何が残るか。「やりたいこと」と「お金になること」が一致するのは、幸運なのか、努力なのか、幻想なのか。
答えはたぶん出ない。出ないまま抱えていくしかない種類の問いだ。
ただ、一つだけ。給料がゼロになった明日、あなたが同じ場所に向かわないと即答できるなら、今そこにいる理由は、思っているよりずっと脆い。
