Sakashita Yasunobu

Drawn to whatever quietly asks to be noticed. Each entry here is an attempt to hold something briefly before it changes — not to preserve it, but to acknowledge that it was once worth pausing for.

Japan
Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

箱の中身はもう決まっている

あなたが何を選ぶか、もう知られている。 目の前に二つの箱がある。透明な箱Aには1000ドル。不透明な箱Bの中身は、あなたがまだ手を伸ばしていないのに、すでに決まっている。あなたの選択をほぼ完璧に予測する存在が、先に箱の中身を決めたからだ。Bだけ取ると予測されていれば100万ドル。両方取ると予測されていれば空。 さて、あなたはどちらを選ぶ。 いや、正確に言おう。あなたは「選ぶ」ことができるのか。 二つの箱と一人の予測者 1969年、物理学者ウィリアム・ニューカムがこの思考実験を考案し、哲学者ロバート・ノージックが論文 Newcomb's Problem and Two Principles of Choice として世に出した。マーティン・ガードナーが Scientific American で紹介したことで、哲学の外まで広く知られるようになった。 状況を整理しよう。 予測者は、あなたが箱を選ぶ前に、あなたの選択を予測して箱Bの中身を決める。この予測者の的中率は、仮に99%としておく。 * 箱Bだけを取る → 予測者がそう予測していれば、Bには100万ドル

By Sakashita Yasunobu

哲学を読む

言葉を研ぐほど声は遠くなる

哲学書を開いて3ページで閉じた経験は、哲学に興味を持ったことがある人なら一度はあるだろう。「なぜこんなに分かりにくく書くのか」、「わざと難しくしているのではないか」。この疑問は自然だが、答えは「半分当たっていて、半分外れている」である。 難しさの正体は一つではない 哲学の文章が難しい理由は複数あり、それを区別せずに「わざと難しくしている」と括ってしまうことが、誤解の出発点になる。ここでは4つの原因を分けて考える。 精密化の代償 哲学が日常語を避けるのは、日常語が曖昧だからである。「自由」という言葉ひとつとっても、日常会話では「好きにしていいよ」から「政治的自由」まで、文脈によって意味が大きく異なる。哲学はその曖昧さを許容できない。 たとえば「自由意志」を論じるとき、「自由」が何を指すのかを厳密に定義しなければ、議論が成立しない。そのために専門用語を導入し、定義を重ね、限定条件を付す。結果として文章は長く、複雑になる。これは難しくしたいのではなく、正確にしたいのである。 「存在」「本質」「主観」「認識」。これらの語は日常でも使われるが、哲学での意味は日常語とズレている。そ

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大学生活

大学生は履修上限を超える意味がない

視野を広げるために、もっとたくさん授業を取りたい。その意欲は理解できる。しかし、GPAの計算式を一度でも冷静に眺めたことがあるだろうか。そこには、履修を増やすことが構造的に不利な賭けであることが、数式としてはっきり書かれている。 GPAは平均だ 日本の多くの大学で採用されているGPAの計算式は、おおむね次の形をとる。 \[ \text{GPA} = \frac{(\text{成績係数} \times \text{単位数}) \text{の合計}}{\text{総履修登録単位数}} \] 成績係数の割り当ては大学によって異なる。もっとも一般的なのは、秀(S)= 4、優(A)= 3、良(B)= 2、可(C)= 1、不可(D)= 0とする方式だ。AA = 4.3を設ける大学もあるし、Sを設けずA = 4から始める大学もある。分母に不合格科目の単位数を含めるかどうか、再履修で成績を上書きできるかどうかにも差がある。 しかし、どの方式であっても根本の構造は変わらない。GPAは加重平均だ。

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哲学を読む

灯りが消えたことに気づかない部屋

あなたの脳を、ひとつずつ、シリコンチップに置き換えていく。ひとつ。もうひとつ。あなたはまだ笑っている。まだ痛みを訴えている。まだ「意識がある」と言い張っている。860億個すべてが置き換わったとき、あなたの口は相変わらず「私はここにいる」と言うだろう。 問題は、そのとき本当にそこに誰かがいるのかどうかだ。 デイヴィッド・チャーマーズが1996年の著作 The Conscious Mind で提示した思考実験「消えるクオリア(Fading Qualia)」は、意識の問題を砂山の崩壊のように描き出す。一粒の砂を取り除いても山は山だ。では百粒では。一億粒では。意識はいつ消えるのか。そもそも「消える」とはどういうことなのか。そして、消えたことに気づけないとしたら、それはもう消えていないのと何が違うのか。 置き換えられるもの チャーマーズの思考実験は単純な設定から始まる。あなたの脳のニューロンを一つ取り出し、まったく同じ入出力関係を持つシリコンチップに置き換える。そのチップは元のニューロンが受け取っていた信号をそのまま受け取り、元のニューロンが送り出していた信号をそのまま送り出す。外から

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哲学を読む

鏡の向こうにもう一人の私が立つ

あなたの脳を真ん中で割って、左半球をAの体に、右半球をBの体に移植する。どちらも目を覚ます。どちらもあなたの記憶を持っている。どちらもあなたの性格で、あなたの価値観で、あなたの好きな音楽を口ずさむ。 さて、どちらがあなたか。 両方だと言えば、一人の人間が二人になったことになる。どちらでもないと言えば、記憶も性格もそのままなのに、あなたは死んだことになる。片方だけだと言えば、もう片方が「自分はあなただ」と訴えたとき、何と答えるつもりなのか。 デレク・パーフィットが1984年の『理由と人格(Reasons and Persons)』で突きつけたのは、この三択のどれを選んでも行き止まりだという事実だった。そしてパーフィットの答えは、三択そのものを踏み潰すものだった。同一性なんて、そもそも重要ではない(identity is not what matters)。 どこが私という問いは、テセウスの船から転送装置まで手を替え品を替え問われてきた。だがパーフィットの分裂は、その問いの急所を別の角度からえぐる。転送装置が「コピーは本人か」という一対一の問題だとすれば、分裂は「一人が二人になった

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日常の構造

椅子に座ると耳が遠くなる

あなたが信頼されるのは、共感する能力があるからだ。あなたが慕われるのは、耳を傾けることができるからだ。そしてあなたが権力を手にしたとき、その能力は静かに劣化し始める。本人はそれに気づかない。気づく必要がないからだ。誰もそれを指摘しなくなるからだ。 これは道徳の話ではない。「権力者は悪い人間だ」という素朴な糾弾でもない。共感という能力が、権力という構造のなかで構造的に朽ちていく、そのメカニズムの話だ。 共感で手に入れた椅子 UCバークレーの心理学者ダッカー・ケルトナーは、20年以上にわたって「権力」の心理学を研究してきた。その知見をまとめた著書 The Power Paradox(2016)が示す結論は、直感に反している。 権力を獲得するために最も重要な能力は、冷酷さでも、政治的手腕でも、カリスマでもない。共感だ。 ケルトナーの実験では、大学の寮生活においてどの学生が影響力を獲得するかを追跡した。最初の一週間で周囲から信頼を得た学生が持っていた特性は、熱意、親切さ、傾聴力、落ち着き、そして開放性だった。権力は、他者の生活を向上させる能力を通じて与えられる。優しい人から壊れるの

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ことばと文学

繰り返されてなお残る言葉たちへ

「使い古された表現を避けろ」という助言は、表現を巡る議論のなかで最も使い古された表現の一つだ。 クリシェ(cliché)はフランス語の印刷用語に由来する。活版印刷で繰り返し使う鋳型のことで、同じ型から同じ文字が何度でも刷り出される。そこから転じて「型にはまった独創性のない表現」を指すようになった。ステレオタイプも同じ語源を持つ。型から作られる量産品。 だが型が繰り返されるのには理由がある。何百年、何千年と反復されてなお生き残っている構造は、その持続性自体が何かを証明している。淘汰を生き延びた表現。では何が、それを生き延びさせたのか。 型はプロトコルである 起承転結。序破急。三幕構成。英雄の旅。 物語の「型」は、退屈の原因ではない。書き手と読み手が情報を受け渡すためのプロトコルだ。 ジョーゼフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』(1949年)で、世界中の神話に共通する物語構造を抽出した。出発、イニシエーション、帰還。この「モノミス」と名づけられた型は、ジョージ・ルーカスが『スター・ウォーズ』の脚本に直接応用したことで広く知られている。しかしルーカスが借りたのは構造であって、物

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大学生活

授業の空きコマはなぜ無に溶けるのか

時間割にぽっかりと空いた90分。次の授業まで自由だ。何でもできるはずだ。 課題を進めることもできる。図書館で本を読むこともできる。友達と話すこともできる。 しかし、実際に起きることは、たいていこうだ。スマートフォンを開く。SNSを眺める。何となく食堂でぼんやりする。気がつけば、次の授業の5分前になっている。90分が、文字通り無に溶けている。 なぜ、自由な時間が何も生まないのか。 中途半端な時間の罠 90分は、何かを始めるには短い。しかし、何もしないには長い。 この「中途半端さ」が、空きコマの最大の敵だ。レポートに取り組もうとすると、「あと90分しかないのに今から始めても中途半端に終わる」という判断が働く。読書を始めようとすると、「途中で切り上げなければならない」という見通しが、没入を妨げる。 結果として、何かに本腰を入れるには不十分だが、完全に休息するには長すぎる時間が宙に浮く。そして宙に浮いた時間は、もっとも抵抗の少ない行動に吸い込まれる。スマートフォンだ。 パーキンソンの法則では、「仕事は与えられた時間を満たすまで膨張する」とされる。しかし空きコマでは逆のことが起

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哲学を読む

選んだはずの手が誰かに握られていた

あなたが「自分で選んだ」と思っているもののうち、本当にあなたが選んだものはいくつあるだろう。 カフェテリアの野菜が目線の高さに並んでいるのは偶然ではない。年金の自動加入がデフォルトになっているのは親切ではない。トイレの的に蝿が描いてあるのは遊び心ではない。すべて設計されている。そして設計者は、あなたの自由を奪っていないと主張する。選択肢は残してあるのだから、と。 2008年、経済学者リチャード・セイラーと法学者キャス・サンスティーンは『Nudge』を出版し、「リバタリアン・パターナリズム」という概念を世に送り出した。自由を守りながら、人々をより良い方向へ導く。その名前自体が矛盾を抱えている。自由主義と父権主義の婚姻。しかし誰もその矛盾を気にしなかった。あまりにもうまく機能したから。 世界中に500を超えるナッジ・ユニットが設立され、世界銀行も国連もこの手法を採用した。だが、ここにひとつの問いが残されている。「より良い方向」とは、誰にとっての、何のことなのか。 中立という幻想 サンスティーンの最も重要な指摘は、中立的な選択環境は存在しないということだった。カフェテリアの食品に

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大学生活

本棚だけが豊かになり思考が動かないあなたへ

「年間100冊読んでいます」。この一文がプロフィールに書いてあると、なんとなく知的な人に見える。だが冷静に考えると、100冊読んだという事実は行動量の記述であって、知性の指標ではない。100キロ走った人が健康かどうかわからないのと同じだ。 「読む」と「使う」の断絶 読書が知性に接続されないのは、意志の問題ではない。「読む」と「使う」の間に構造的な断絶がある。 本を読んでいる最中、あなたの脳は活発に動いている。新しい概念を理解し、著者の論理を追い、時に感動する。だがその活発さは、本を閉じた瞬間に急速に減衰する。3日後、あなたは本の内容をほとんど覚えていない。1ヶ月後には、タイトルと「面白かった」という印象だけが残る。 これは記憶力の問題ではない。読書という行為の構造上、当然のことだ。本は著者の問いに対する著者の答えで構成されている。あなたは著者の思考を追体験しているだけで、自分の思考を動かしていない。他人の筋トレを見ているようなもので、見ているだけでは筋肉はつかない。 読書を「インプット」と呼ぶ問題 読書を「インプット」と呼ぶこと自体が誤解を生んでいる。 「インプット」

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日常の構造

あなたの立ち位置を決めている見えない力

エスカレーターに乗るとき、あなたは一瞬で判断を下している。左に立つか、右に立つか。その判断にかかる時間は、ほぼゼロだ。考えていない。周囲と同じ側に立っている。 片側空けの始まり エスカレーターの片側を歩行用に空ける慣習は、1944年のロンドン地下鉄に起源があるとされる。混雑緩和のために「右側に立ち、左側を空けてください」という案内が始まった。この慣習はやがて世界各地に広がった。 日本では、1967年に大阪の阪急梅田駅で長いエスカレーターが設置された際、「お急ぎの方のために左側をお空けください」というアナウンスが行われたのが、片側空けの始まりとされることが多い。大阪では右に立ち左を空ける。東京では左に立ち右を空ける。この左右の違いが生まれた経緯には諸説あり、定説はない。 注目すべきは、この慣習を誰かが命令したわけではないということだ。鉄道会社のアナウンスがきっかけであったとしても、全国的な社会規範として定着したのは、無数の人が互いの行動を観察し、模倣し、暗黙の了解として共有した結果にほかならない。 協調ゲームとナッシュ均衡 ゲーム理論の枠組みで見ると、エスカレーターの片側

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ことばと文学

現代音楽が理解不能に感じる理由

1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場でストラヴィンスキーの「春の祭典」が初演されたとき、客席は騒然となった。不協和な和声、変拍子のリズム、原始的な振付。観客は賛否に分かれ、怒号と拍手が入り乱れた。警察が呼ばれたという証言もある。 一世紀後の今、同じ曲はクラシック音楽の定番レパートリーとしてどのコンサートホールでも演奏されている。曲は一音たりとも変わっていない。変わったのは、聴く側の耳だ。 あなたの耳は訓練済みである ドレミファソラシド。この音の並びが「自然」に聞こえるなら、それはあなたの耳がすでに調性音楽のプロトコルに最適化されているからだ。 調性音楽とは、特定の音(主音)を中心に据え、そこからの距離と関係で他の音を組織する体系である。西洋音楽はおよそ四世紀にわたってこの体系を発展させてきた。バロック、古典派、ロマン派。バッハからモーツァルトを経てベートーヴェンに至る巨大な伝統だ。 あなたが「美しいメロディ」「心地よいハーモニー」と感じるものは、この伝統の中で繰り返し刷り込まれた期待のパターンにほかならない。ポップスもロックもジャズも、根本的にはこの調性の体系の上に

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