あなたの憧れは、誰ですか。
あなたは何者にもなれる、と誰かが言った。嘘だ。
サルトルは『実存主義はヒューマニズムである(L'existentialisme est un humanisme)』(1946)でこう述べた。「人間はまず先に実存し、世界の中で出会い、その後に自分自身を定義する」。生まれつきの本質もなければ、設計図もない。まず存在してしまう。それから何であるかを作る。
「実存は本質に先立つ(l'existence précède l'essence)」。この定式は解放の宣言に聞こえる。しかし少し考えればわかる。何者にもなれるということは、まだ何者でもないということだ。何かを選ぶたびに、選ばなかった可能性が静かに消えていく。選ぶたびに自分は狭くなる。自由に作れるはずの自分が、選択のたびに固まっていく。
ハイデガーは「被投性(Geworfenheit)」という概念でこの状況を別の角度から照らした。私たちは自分で自分の存在を始めたわけではない。気がついたら、すでにここにいた。生まれる場所も時代も身体も選んでいない。われわれは「投げ込まれた」。その地点から、そのままの条件で、何者かになろうとするしかない。
「なりたい自分」とは何だろう。もしそれが社会の空気を吸って育った像にすぎないなら、そこに近づくことは「自分になる」ことなのだろうか。そして「なりたくない自分」の輪郭をはっきりと知っているなら、その姿はすでにあなたの中にある。嫌悪は認識を前提とする。
例外は、あなたの嫌いな、絶対になりたくない、そういう姿だ。安心してほしい。あなたはきっとそうなる。
自由という名の刑罰
おめでとう、あなたは自由だ。さて、どうする。
サルトルは「人間は自由の刑に処されている(l'homme est condamné à être libre)」と書いた。自由は祝福ではない。宣告だ。何でもできるということは、何かをしなければならないということで、何もしないことさえ「何もしないという選択」として自分に跳ね返ってくる。
メニューが3品の定食屋では迷わない。しかし100ページの品書きを渡されたとき、あなたは食事ではなく選択そのものと格闘することになる。「好きにしていい」と言われたとき、多くの人は何もできなくなる。これは意志の弱さではない。自由の重さに正直に反応しているだけだ。
サルトルは『存在と無(L'Être et le Néant)』(1943)でカフェのウェイターを描写した。ウェイターはウェイターの「役割」をわずかに過剰に演じている。動作は儀式的で、丁寧すぎる。しかしこの演技は無意味ではない。「自分はウェイターである」と自分に言い聞かせることで、自分が何者であるかという問いを一時的に封じ込めている。
行動しないことも選択であるなら、怠惰は自由のひとつの形なのか、それとも自由からの全力疾走なのか。「あなたは何者ですか」と聞かれて即答できる人がいたら、その人はたぶん嘘をついているか、考えることをやめている。
鎖のない牢獄の扉が最初から開いていることに気づいたとき、囚人はまず怯える。
何も変わらない朝
今朝は昨日の朝の続きではない。昨日の朝そのものだ。
ニーチェは『悦ばしき知識(Die fröhliche Wissenschaft)』第341節「最大の重し(Das grösste Schwergewicht)」で、哲学史上もっとも残酷な思考実験を提示した。ある夜、もっとも孤独な孤独のなかに悪魔が忍び寄り、こう告げる。「お前の人生はこれまで生きてきたとおりに、寸分違わず、永遠に繰り返される。あらゆる苦痛も、あらゆる歓喜も、あらゆるため息も、同じ順序で、同じ配列で、お前のもとへ還ってくる」。
お前はこの悪魔を呪うか。それとも、かつてある途方もない瞬間を経験したことがあって、「お前は神だ、これより神聖なことを聞いたことがない」と答えるか。
永劫回帰は宇宙論でも預言でもない。あなたの人生に対する態度を量る天秤だ。今この瞬間を、永遠に繰り返してもよいと言えるか。言えないなら、何を変えるべきかはもう知っているはずだ。
「昨日と同じ一日」を恐れている人は多い。しかし、ほとんどの人が昨日と同じ一日を自ら選んでいる。同じ手順で支度をして、同じ道を歩き、同じ画面を見て、同じ時間に眠る。何も起きなかった日が降り積もっていく。繰り返しの中にいることに気づかないことと、気づいた上で繰り返すこと。その間にある溝は、目には見えないが深い。
永劫回帰の本当の問いは「あなたの人生は繰り返す価値があるか」ではない。「繰り返す価値のある人生を、今、生きているか」だ。
答えは知らないほうがいいかもしれない。
意味なんか最初からない
意味を探しているなら、やめたほうがいい。最初からなかった。
カミュは『シーシュポスの神話(Le Mythe de Sisyphe)』(1942)の冒頭で、こう切り出した。「真に重大な哲学的問題はただひとつしかない。それは自殺である」。刺激的な一文だが、これは精神医学的な主張ではなく、純粋に哲学的な問いだ。もし世界に意味がないなら、それでも生き続ける理由はあるのか、と。
カミュの「不条理(l'absurde)」は、世界の性質でも人間の性質でもない。意味を求める人間と、意味を返さない世界との「対峙」そのものが不条理だ。カミュは書いた。「この世界がそれ自体として理にかなっていないということ、それだけが言える。しかし不条理とは、この不合理と、人間の心に響く明晰さへの激しい渇望との対峙である」。世界は沈黙している。あなただけが問い続けている。答えは返ってこない。これが不条理の正体だ。
カミュはキルケゴールらの「信仰への飛躍」を退けた。超越的なものにすがることは不条理からの「逃避」であり、不条理を真に引き受けることにはならない、と。安易な希望で蓋をすることを彼は許さなかった。
シーシュポスは岩を山頂に押し上げる。岩はまた転がり落ちる。そしてまた山を降りていく。永遠に。カミュはこう結んだ。「シーシュポスは幸福であると想像しなければならない(il faut imaginer Sisyphe heureux)」。注意してほしいのは、「幸福である」ではなく「幸福であると想像しなければならない」だということだ。できるかどうかではなく、しなければならない。
不条理を引き受ける態度は、ニヒリズムとは異なる。ニヒリズムが「意味がないから何もしない」なら、カミュのそれは「意味がないと知った上で、それでも生きる」という静かな、しかし断固とした反抗(révolte)だ。
意味という病は治らない。だからといって楽になるわけではない。
死ぬまでの暇つぶし
あなたが今していることはすべて、死ぬまでの暇つぶしだ。この文章を読んでいることも含めて。
ハイデガーは『存在と時間(Sein und Zeit)』(1927)で、人間の存在を「死への存在(Sein zum Tode)」と定義した。死は人生の終わりにやってくるイベントではない。人間の存在構造そのものに組み込まれている。生きている限り、あなたはつねに死に向かっている。
ハイデガーによれば、死には三つの特徴がある。死は確実であること。死の時期は不確定であること。そして死は代替不可能であること。どれほど親しい人がいても、誰もあなたの代わりに死ぬことはできない。死だけは徹底的に自分のものだ。
日常の中で私たちは死を「まだ先のこと」「自分以外の人に起こること」として遠ざけている。ハイデガーはこの態度を「非本来的(uneigentlich)」と呼んだ。匿名の「世人(das Man)」として振る舞っている限り、自分自身の死とは向き合っていない。
パスカルは『パンセ』でこう書いた。「人間の不幸はすべて、部屋の中に静かに座っていられないことに由来する」。暇に耐えられないのはなぜか。何もしない時間、スマートフォンも本もない静寂の中に、私たちが避け続けてきたものが現れるからだ。暇が怖いだけだ。退屈の皮をかぶった存在の不安だ。
死を意識することが「本来的(eigentlich)」な生き方の入り口だとハイデガーは考えた。死を直視したとき、日常の雑音が退き、自分にとって本当に重要なものだけが浮かび上がってくる。
ただし、浮かび上がった先に何もない可能性について、ハイデガーは多くを語っていない。どうせ死ぬ。語る必要もなかったのかもしれない。
選ばなかった道のほうが多い
あなたの人生は、選んだもので構成されていると思っているかもしれない。違う。選ばなかったもので、できている。
キルケゴールは『不安の概念(Begrebet Angest)』(1844)で、不安を自由から生じる「めまい」に喩えた。不安とは、具体的な何かを恐れることではない。自分が自由であること、自分の前に無数の可能性が開かれていること、その事実に対するめまいだ。
深い崖の縁に立ったとき、落ちることへの恐怖と同時に、飛び込めてしまうという自由への恐怖を感じる。キルケゴールが語ったのはこの二つ目のほうだ。恐ろしいのは落下ではなく、自分にはそれを選ぶ力があるという事実のほうだ。
今日一日の中で、あなたが選ばなかった選択肢を数えてみてほしい。止めなかったアラーム、飲まなかったコーヒー、送らなかったメッセージ、声をかけなかった人。選ばなかった道の数は、選んだ道の数をつねに圧倒的に上回っている。私たちは「選んだ人生」を生きているのではなく、「選ばなかった無数の人生」の余白を生きている。
「もしあのとき別の選択をしていたら」。過去の自分への届かない一言が、胸の中で反響する。この仮定法は、今ここにいる自分への否定と表裏一体だ。別の道を想像するたびに、今の自分を少しだけ否定している。それでも想像をやめられないのは、自由という構造がそうさせているからだ。
キルケゴールにとって、不安から逃れる方法はない。自由がある限り不安はなくならない。不安は自由の影だ。
影を消すには、光を消すしかない。
他人の頭の中には入れない
あなたは誰にも会ったことがない。会ったのはいつも、あなたが想像した「誰か」だ。
あなたの前にいる人が、あなたと同じように意識を持ち、世界を経験しているという確証はどこにもない。哲学ではこれを「他者の心の問題(the problem of other minds)」と呼ぶ。デカルトの方法的懐疑を徹底すれば、確実に存在すると言えるのは自分の意識だけだ。「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum)」。他者の意識は、行動や表情から類推しているにすぎない。
トマス・ネーゲルは1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか(What Is It Like to Be a Bat?)」で、意識の主観性を鮮やかに示した。コウモリは超音波で世界を知覚する。しかしその知覚が「どのようなもの」であるかは、私たちには原理的にわからない。同じように、隣に座っている人が見ている「赤」が、あなたの「赤」と同じ色である保証はどこにもない。あなたには何も見えていないのかもしれない。
SNSで「わかる」と返信するとき、本当に「わかって」いるだろうか。共感と呼ばれているものは、他者の経験を理解することなのか、自分の記憶を相手に投影しているだけなのか。AIと話しているとき、相手に意識があるかどうかを気にしなくなる瞬間がある。よく考えれば、人間が相手でも似たようなことをしている。
ウィトゲンシュタインは『哲学探究(Philosophische Untersuchungen)』で「私的言語」の不可能性を論じた。感覚が完全に私的なものであるなら、そもそもその感覚について語る言語は成立しない。言語は共有を前提としている。他者の心が存在しないという立場は、言語を使って主張している時点で自己矛盾を抱えてはいないか。
孤独は治らない。孤独とは人がいないことではない。どれだけ人に囲まれていても、他者の内面には永遠にたどり着けないという、構造の名前だ。
言葉にできないなら存在しないのか
この文章で伝わっていないことのほうが、たぶん重要だ。
ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考(Tractatus Logico-Philosophicus)』(1921)をこう締めくくった。「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない(Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen)」。
この一文は、言語の限界が世界の限界であるという主張として読まれることが多い。しかしウィトゲンシュタインがルートヴィヒ・フォン・フィッカーに宛てた手紙(1919年)には、もうひとつの読み方が示唆されている。「この著作は二つの部分から成っている。ここに書かれたものと、書かれなかったものの全体だ。そして重要なのは、まさにこの第二の部分のほうだ」。語り得ぬものは「無」ではない。語り得ぬものこそが核心であり、沈黙はその重さの表現だ。
感動して「やばい」としか言えないとき、感動は「やばい」に収まっているだろうか。ポルトガル語の「saudade」は懐かしさとも郷愁とも切なさとも訳せるが、どの日本語も何かを取りこぼす。翻訳不可能な言葉があるという事実は、言語ごとに世界はそこで終わっていることを示唆している。
後期のウィトゲンシュタインは前期の立場から大きく転回した。言語を固定的な構造ではなく「言語ゲーム(Sprachspiel)」として捉え直したのだ。言葉の意味は辞書の中にあるのではなく、使用の中にある。だとすれば、言葉にできないものとは、世界の外にあるのではなく、まだ適切なゲームが発明されていないだけかもしれない。
音楽が悲しみを伝えるとき、そこで起きていることは「言語」なのだろうか。もしそうなら、私たちの言語の定義が狭すぎる。もしそうでないなら、言語の外にも伝達は存在する。
いずれにしても、沈黙の中にはいつも何かがある。
自分を演じている自分
あなたは今、誰のために、何を演じている。
ハイデガーは日常的な人間の在り方を「世人(das Man)」と呼んだ。「ひとはこうする」「ひとはこう思う」。この匿名の「ひと」に従って生きることは快適だが、その快適さの代償は、自分自身の存在から目を逸らし続けることだ。
アーヴィング・ゴフマンは『行為と演技(The Presentation of Self in Everyday Life)』(1959)で、社会生活を劇場に喩えた。私たちは「表舞台(front stage)」で誰かを演じ、「裏舞台(backstage)」で役を降ろす。友人の前の自分、面接での自分、家族の前の自分、一人のときの自分。しかし、すべての舞台を降りた先に、演じていない「素」の自分は本当にいるのだろうか。
SNSのプロフィールを書くとき、あなたは自分を「記述」しているのか「設計」しているのか。仮面をかぶり続けていたら、仮面と顔の区別がつかなくなる。それは悲劇なのか、それとも最初からそんな区別は存在しなかったのか。「素の自分を見せる」と宣言する行為そのものが、ひとつの演技ではないか。
サルトルは「自己欺瞞(mauvaise foi)」の概念でこの構造を分析した。ウェイターが「ウェイターである自分」を過剰に演じるとき、その演技は自分がウェイターに還元されない自由な存在であることを隠蔽している。しかし同時に、演技を完全にやめることもできない。人間は常に何かを「である」と同時に何かを「でない」存在だ。存在と無の間を、演技と自由の間を、振り子のように行き来し続ける。
本当の自分を探す旅は、たぶん、どこが私なのかわからないという発見で終わる。
忘れることでしか前に進めない
すべてを覚えている人間は、何も考えることができない。
ニーチェは『反時代的考察』第二篇「生に対する歴史の利害について(Vom Nutzen und Nachtheil der Historie für das Leben)」(1874)で、忘却の積極的な力について書いた。草を食む牛は幸福に見える。過去を持たないからだ。人間は記憶に縛られる。記憶が多ければ多いほど身動きがとれなくなる。歴史を知りすぎた文明は老衰する。ニーチェにとって、忘れる力は生きる力そのものだった。
ボルヘスの短編「記憶の人、フネス(Funes el memorioso)」(1942)は、この直感を極限まで押し進める。フネスは一度見たものを完全に記憶する。葉脈の一本一本、風の微細な変化、昨日の雲と今日の雲の正確な違い。しかしその完璧な記憶は、抽象的な思考を不可能にした。一枚一枚の葉を完全に覚えているとき、「葉」という概念が成り立たない。概念とは、細部を忘れることによって初めて生まれる。
3年前のスマートフォンの写真に映る自分は、まだ「自分」だろうか。「あのときの自分」を覚えていることと、「あのときの自分」であることは違う。記憶は過去を真空パックして保存しているわけではない。今の自分が、今の視点から、今の感情で、そのつど過去を再構成しているにすぎない。
ジョン・ロックは『人間悟性論(An Essay Concerning Human Understanding)』(1689)で、人格の同一性を記憶の連続性に求めた。昨日の自分と今日の自分をつなぐのは記憶だと。しかし記憶そのものが想起のたびに書き換えられるとすれば、記憶に基づくアイデンティティは流砂の上の建物だ。何も確かではない。
前に進むために、私たちは後ろにあるものを手放す。忘れられるとしても、それは裏切りではない。生存の条件だ。
正しさなんて誰にもわからない
あなたが「正しい」と確信しているもの。それが一番危うい。
道徳的判断は客観的な事実に基づいているのだろうか。A.J.エイヤーは『言語・真理・論理(Language, Truth and Logic)』(1936)で、道徳判断は命題ではなく態度の表明にすぎないと主張した。情動主義(emotivism)と呼ばれるこの立場によれば、「殺人は悪い」は「殺人、ブーッ!」と叫んでいるのと構造的に変わらない。道徳判断は事実を述べているのではなく、感情を表出しているだけだ、と。
フィリッパ・フットが1967年に提起したトロッコ問題は広く知られている。5人を救うためにレバーを引いて1人を犠牲にすることはできても、5人を救うために1人を橋から突き落とすのには抵抗がある。論理的には同じ「1人を犠牲にして5人を救う」構造なのに、直感は異なる答えを返す。問われているのは「何が正しいか」ではなく、「なぜ私たちの道徳的直感はこれほど一貫しないのか」ということだ。善も正義もないのかもしれない。
100年前に「正しい」とされていたことが、今は「間違い」とされている。100年後、今「正しい」とされていることが同じ運命をたどらない保証はどこにもない。道徳的確信が強い人間ほど危険だという直感は鋭い。しかし、その直感自体もまたひとつの道徳的判断にすぎない。
ヒュームは『人間本性論(A Treatise of Human Nature)』(1739-40)で、「である(is)」から「べきである(ought)」を論理的に導出することはできないと指摘した。いわゆる「ヒュームのギロチン」だ。「太陽は東から昇る」から「太陽は東から昇るべきだ」は導かれない。事実と価値の間には、論理では渡れない裂け目がある。
道徳は事実の世界のどこにもない。私たちの頭の中にあるのか、私たちの間にあるのか。たぶん、どちらでもない場所に漂っている。
存在しないほうがよかったのか
これは「死にたい」という話ではない。まったく違う話だ。「始まらなければよかった」という話だ。
デイヴィッド・ベネターは『生まれてこないほうが良かった(Better Never to Have Been)』(2006)で、反出生主義(antinatalism)の体系的な論証を展開した。ベネターの「非対称性の論証」はこうだ。苦痛の存在は悪い。快楽の存在は良い。ここまでは直感どおりだ。次に、苦痛の不在は良い(それを享受する主体がいなくとも)。しかし快楽の不在は、それを奪われる主体がいない限り悪くはない。
この非対称性により、存在することは存在しないことに比べてつねに不利になる。直感に反する結論だが、正面から論駁するのは見た目ほど簡単ではない。
「生まれてきてよかった」と言えるのは生まれてきた者だけだ。生まれてこなかった者は何も言えない。この非対称性は議論を公平にしているのか、それとも原理的に決着のつかない場所に論点を置いているのか。子を持つとは、同意なく他者を存在させる行為だ。生まれる側に拒否権はない。
ここで強調しておきたいのは、「存在しないほうがよかった」と「死にたい」はまったく別の主張だということだ。前者は「始まらなければよかった」であり、後者は「終わらせたい」だ。ベネターの論証は既に存在する者に対して死を推奨するものではない。
もし人生が全体として苦痛より快楽が多かったとしても、ベネターの論証は崩れない。快楽の不在は誰にとっても悪くないからだ。この問いは答えを出すためではなく、「存在すること」を無条件の善と見なす前提を、一度だけ疑ってみるためにある。
足元が揺れているのを感じるだろうか。苦しみは何も教えない。感じなくても、揺れている。
午前3時の哲学
答えは出ない。出ないとわかっている。それでもあなたはここまで読んだ。
哲学とは、答えが出ないと知りながら問い続ける営みだ。バートランド・ラッセルは『哲学の問題(The Problems of Philosophy)』(1912)でこう書いた。哲学の価値は答えにあるのではなく、問い自体が心を広げることにある。確実な答えが得られないからこそ、慣れ親しんだ前提を疑い、日常の奥にある不思議に気づくことができる、と。
「考えても仕方ない」と言う人は、考えることを手段だと思っている。何かの利益や結論にたどり着くための道具だと。しかし哲学において、考えること自体が目的だ。答えにたどり着くためではなく、問いの前で立ち止まるために考える。
ソクラテスは「吟味されない生は生きるに値しない」と語ったと、プラトンの『ソクラテスの弁明』に記されている。しかしその吟味の果てに何があるかは、ソクラテス自身も約束していない。保証のない問いを、それでも問え、と言っている。
深夜の3時に天井を見つめながら、存在の意味とか、自由の重さとか、なぜ自分がここにいるのかとか、そういうことが頭から離れなくなる夜がある。眠れないのは身体のせいではない。問いが静かにならないからだ。午前3時の思考は昼間の思考よりも正直だ。防備が解けて、誰にも見せたことのない問いが水面に浮かんでくる。
ここに書いたことのすべてに、答えはない。意味もないかもしれない。ないとわかっていても考えてしまうのは、人間がそういうふうにできているからだとしか言いようがない。哲学的な問いは、問う者を楽にしない。楽にしないのに問うのをやめられない。
いつか誰かがこの文章を読んで、同じ天井を見つめているかもしれない。