倫理と思考実験

A lever, a ring, a button. These entries begin with a scenario that seems simple, then watch it come apart. They explore what we owe each other, whether empathy saves or destroys, and where justice frays at the edges.

倫理と思考実験

怪物の口に幸福が吸い込まれる

幸福の総量を最大化する。それが正しいと言われてきた。しかし1974年、ロバート・ノージックはたった一つの問いでその前提を破壊した。もしある存在が、他の全員よりも圧倒的に多くの快楽を得られるなら、功利主義は全員の取り分をその「怪物」に差し出すことを要求する。 あなたの幸福は計算の端数だった。切り捨てられた。 幸福を貪る口 1974年、ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』のなかで一つの思考実験を置いた。 功利主義は、効用の怪物の可能性によって困惑させられる。怪物は、他の人々の犠牲から、その人々が失う以上に圧倒的に大きな効用の増加を得る。 仕組みは単純だ。功利主義の原則に従えば、社会全体の幸福を最大化する資源配分が「正しい」。ここに一人、あらゆる資源からとてつもない快楽を引き出す存在が現れたとする。りんご一個で他の百人分の快楽を得る。映画を一本見れば千人分の歓喜を感じる。 功利主義はこの怪物にすべてを差し出すことを要求する。他の全員が飢えても、怪物の快楽が総量を上回る限り、それが「最善」だと計算は告げる。 ノージックが示したかったのは、功利主義が論理的に正し

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

綱を引く手が一本ずつ消えていく

あなたは集団のなかで、少しずつ消えている。 それは比喩ではない。測定可能な事実だ。19世紀末、フランスの農学者マクシミリアン・リンゲルマンは、人が集団で綱を引くとき、一人あたりの力が確実に減少することを発見した。人数が増えるほど、個人は薄まる。誰のせいでもなく、誰も怠けているわけではなく、ただ構造がそうさせる。 もしあなたがいま、何かのチームに属しているなら、あなたはすでに全力を出していない。そしてそのことに、おそらく気づいてもいない。 綱を引く手が教えたこと リンゲルマンの実験は素朴だった。 1880年代から1900年代初頭にかけて、彼は農業機械の効率を研究する過程で、人間が集団で水平方向に荷を押したり引いたりする際のパフォーマンスを測定した。その結果は1913年に報告されている。一人で綱を引くとき、その人間は持てる力をすべて発揮する。二人になると、一人あたりの出力は約93%に落ちる。三人で85%。八人になると、49%。半分以下だ。 この数字の意味を考えてみてほしい。八人で綱を引いているとき、あなたは一人のときの半分も力を出していない。しかもそのことに自覚がない。全員が

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

届かないとわかっている声を上げる

あなたの一票で世界が変わる。選挙のたびに誰かがそう言う。統計的には、あなたの一票が選挙結果を左右する確率は、雷に打たれるよりも低い。それでも私たちは投票所に足を運ぶ。合理性が崩壊した場所で、民主主義は何食わぬ顔で回り続けている。 あなたの一票が届く確率 1957年、経済学者アンソニー・ダウンズは『民主主義の経済理論』で、ある不都合な計算を示した。投票に行くにはコストがかかる。時間、移動、情報収集の手間。一方で、自分の一票が選挙結果を変える確率は天文学的に低い。期待効用の枠組みで考えれば、投票しない方が得だ。 これが「ダウンズのパラドックス」と呼ばれるものだ。 話は単純に見える。自分の票が決定的になる確率に、候補者間の価値の差を掛け、投票コストを引く。問題は、その「決定的になる確率」がほぼゼロだということだ。有権者を重み付きコインに見立てる二項モデルでは、一票が勝敗を覆す確率は100万分の1ペニーにも満たないと推計される。もう少し楽観的な、過去の選挙データに基づく統計モデルでも、接戦州で1000万分の1程度だ。 宝くじの賞金が2億円だとしても、宝くじを買うことが合理的だとは言

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

箱の中身はもう決まっている

あなたが何を選ぶか、もう知られている。 目の前に二つの箱がある。透明な箱Aには1000ドル。不透明な箱Bの中身は、あなたがまだ手を伸ばしていないのに、すでに決まっている。あなたの選択をほぼ完璧に予測する存在が、先に箱の中身を決めたからだ。Bだけ取ると予測されていれば100万ドル。両方取ると予測されていれば空。 さて、あなたはどちらを選ぶ。 いや、正確に言おう。あなたは「選ぶ」ことができるのか。 二つの箱と一人の予測者 1969年、物理学者ウィリアム・ニューカムがこの思考実験を考案し、哲学者ロバート・ノージックが論文 Newcomb's Problem and Two Principles of Choice として世に出した。マーティン・ガードナーが Scientific American で紹介したことで、哲学の外まで広く知られるようになった。 状況を整理しよう。 予測者は、あなたが箱を選ぶ前に、あなたの選択を予測して箱Bの中身を決める。この予測者の的中率は、仮に99%としておく。 * 箱Bだけを取る → 予測者がそう予測していれば、Bには100万ドル

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

星だけが増えていく沈黙の宇宙

1950年、ロスアラモスの食堂。物理学者エンリコ・フェルミが同僚たちの雑談に割って入った。 "Where is everybody?" みんなはどこにいるんだ。76年が経った。返事は来ていない。 宇宙には観測可能な範囲だけでおよそ2兆の銀河がある。天の川銀河だけで数千億の恒星がひしめき、そのうち相当数が居住可能領域に惑星を持つ。確率的に考えれば、どこかに知的生命がいてもおかしくない。いてもおかしくないどころか、いないほうが不自然に見える。 なのに、何も見つからない。信号も、痕跡も、残骸すらない。 科学者たちはこの矛盾をフェルミのパラドックスと名づけた。だが、矛盾しているのは宇宙のほうだろうか。それとも「いるはずだ」と期待してしまう、こちらの推論のほうだろうか。 食堂で生まれた問い フェルミの問いが厄介なのは、それが直感的に正しく聞こえるからだ。 宇宙は約138億年前に始まった。地球は約46億年前に形成され、生命は少なくとも38億年前には出現していたとされる。宇宙の年齢からすれば、地球の生命はかなり早い段階で生まれたことになる。ならば、地球より数十億年早くできた惑星で、

By Sakashita Yasunobu

日常の構造

誰も等しくなれない世界で選び続けること

「公平な社会をつくるべきだ」という主張に反対する人はほとんどいない。しかし「公平とは何か」を定義しようとした瞬間、合意は崩壊する。結果を等しくすることなのか、機会を等しくすることなのか、貢献に応じて分配することなのか、必要に応じて分配することなのか。これらは互いに矛盾し、どれを選ぶかによって社会の設計はまったく異なるものになる。公平は理念としては美しいが、実装しようとすると必ず何かを犠牲にする。その犠牲の中身を見ずに「公平」を語ることはできない。 四つの公平、四つの矛盾 公平の定義は少なくとも四つある。 第一に、結果の平等。全員が同じ量の資源を受け取る。最も直感的だが、最も実現困難な定義である。人間の能力、意欲、環境が異なる以上、同じインプットを与えても同じアウトプットにはならない。結果を揃えようとすれば、アウトプットの段階で強制的な再分配が必要になる。 第二に、機会の平等。全員が同じスタートラインに立つ。しかしスタートラインを揃えること自体が幻想である。生まれた家庭の経済力、遺伝的な知能や体力、育った地域の教育環境。これらを完全に均すことは原理的に不可能であり、配られたカー

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倫理と思考実験

「人それぞれ」が静かに殺すもの

「人それぞれだよね」。この言葉が議論の中で出てきた瞬間、会話は終わる。相対主義がそういうものだと思われているなら、それは哲学にとって最大の風評被害である。 相対主義の「対象」を分けていない問題 相対主義を「何でもあり」と解釈する人の多くは、相対主義が何について相対的だと言っているのかを区別していない。哲学における相対主義には、少なくとも3つの異なる対象がある。 真理の相対主義。 「真理は文化や時代によって異なる」という主張である。たとえば「地球が宇宙の中心である」は、かつてある文化圏で真理とされていた。真理の基準が歴史的・文化的に変動することを指摘する立場である。 価値の相対主義。 「善悪の基準は普遍的ではない」という主張である。ある行為が道徳的に正しいかどうかは、文化や共同体の規範に依存するという立場。文化人類学における文化相対主義はこの系統に属する。 認識の相対主義。 「世界の見え方は認識の枠組みに依存する」という主張である。同じ対象でも、異なる概念体系を通して見れば異なって見えるという立場。 この3つは別々の主張であり、一つを認めたからといって残りも認めなければなら

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倫理と思考実験

選んだはずの指先が止まらない夜に

スクリーンタイムの通知を見て「嘘でしょ」と思ったことがあるなら、あなたは問題の当事者である。3時間、4時間、ときには5時間。自分では30分くらいしか触っていないつもりだった。しかもその間、「やめよう」と思えばいつでもやめられたはずだった。少なくとも、そう感じていた。 選んでいるのに、選んでいない スマホを操作しているとき、私たちは常に「選択」をしている。この動画を見るかスキップするか。この投稿にいいねするかしないか。次のアプリを開くか閉じるか。選択肢は確かに存在しており、どちらを選ぶかは自分が決めている。 しかし問題は、その選択肢の「枠組み」自体が設計されていることである。選択肢は与えられているが、選択の場を設計したのは自分ではない。これが「自分で選んでいる感覚」が維持される仕組みである。 アテンション・デザインの具体的な仕組み スマホのUIには、ユーザーの注意を引き続けるための設計が随所に埋め込まれている。 無限スクロール。 コンテンツに「終わり」がない。雑誌なら最後のページがあるが、SNSのフィードは底がない。「もう少しだけ」が永遠に続く構造になっている。 自動再

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倫理と思考実験

最も効率よく人を救う者が隣人を見捨てる

最も効率的に人を救おうとした者が、やがて隣にいる友人を見捨てることになる。これは倫理学の暴走ではない。善意の正確な帰結だ。 膝丈の水 ピーター・シンガーが1972年に書いた論文 "Famine, Affluence, and Morality" に、ひとつの思考実験がある。 出勤途中、膝丈の浅い池で幼い子どもが溺れている。周囲に誰もいない。あなたは新品のスーツを着ている。助けるか。当然、助ける。スーツが台無しになっても、会議に遅刻しても、子どもの命には代えられない。ほとんどの人がそう答える。 ではシンガーは問う。遠い国で同じ年齢の子どもが飢餓で死にかけているとき、あなたはなぜ同じように行動しないのか。数千ドルの寄付で救える命がある。あなたは昨日、同じ額を何か別のものに使った。 物理的な距離は、道徳的に何かを変えるのか。シンガーの答えは明快だった。変えない。 この論理を受け入れた瞬間、日常は足元から崩れる。友人への贈り物も、旅行も、趣味に使うお金も、すべて「救えたはずの命」との引き換えになる。あなたはもうボタンを押している。ただ気づいていないだけで。 これが効果的利他主義

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倫理と思考実験

あなたの臓器が五人を生かす朝

五人が死にかけている。それぞれに別の臓器が必要で、提供者はいない。しかし廊下に一人、健康な人間が歩いている。その人を殺して臓器を取り出せば、五人は助かる。 ほとんどの人はこれを拒む。だが「なぜ拒むのか」と問われると、答えに詰まる。 1975年、哲学者ジョン・ハリスはこの光景を制度にした。全国民に番号を割り振り、臓器が必要になるたびコンピュータが番号を選ぶ。呼ばれた人間は死ぬ。残りは生きる。彼はこれを「生存くじ(Survival Lottery)」と呼んだ。 功利主義の計算では、この制度は正しい。一人の死で二人以上が助かるなら、差し引きでプラスになる。しかしこの計算を「正しい」と言い切れる人間がほとんどいないという事実が、この思考実験の核にある。 レバーは引けるのに 1967年、フィリッパ・フットがトロッコ問題を提示した。暴走するトロッコが五人に向かっている。レバーを引けば別の線路に逸れるが、そちらには一人がいる。多くの人はレバーを引く。五人の命と一人の命。算数としては同じだ。 しかし臓器くじでは、同じ5対1の数式に人々は首を振る。トロッコ問題では許容された犠牲が、病院の廊

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倫理と思考実験

最後の人間が最後の木の前に立つ

地球最後の人間が、最後の一本の木の前に立っている。核戦争はとうに終わり、他の生き残りはいない。動物もいない。未来世代も来ない。この人間が斧を振り上げて、その木を切り倒したとする。誰も困らない。誰も泣かない。苦しむ存在はどこにもいない。それでもその行為は「悪い」のか。 もし直感が「悪い」と囁くなら、あなたはすでに厄介な場所に立っている。なぜなら、その直感を正当化できる倫理学を、西洋哲学はほとんど持っていなかったからだ。 ラウトリーの午後 1973年、オーストラリアの哲学者リチャード・ラウトリー(のちにリチャード・シルヴァンと改名)が、ブルガリアの世界哲学会議でこの思考実験を提示した。論文のタイトルは "Is There a Need for a New, an Environmental, Ethic?" だった。そのタイトル自体がすでに答えを含んでいるようにも見えるが、ラウトリーの論証は予想よりずっと慎重だった。 彼の狙いは、既存の倫理学の骨格を取り出すことにあった。功利主義は快苦の総量で行為を評価するが、苦しむ存在がゼロなら計算の入力がない。カント倫理学は理性的行為者の尊厳

By Sakashita Yasunobu

倫理と思考実験

清い手では誰も救えなかった

ジャン=ポール・サルトルが1948年に書いた戯曲『汚れた手』で、ウドレールという革命家がこう叫ぶ。「おれの手は肘まで汚れている。糞と血のなかに肘まで突っ込んだのだ。それがどうした。お前は、手袋をはめたまま何かを変えられると本気で思っているのか」 25年後、政治哲学者マイケル・ウォルツァーがこの問いを学術の俎上に載せた。1973年の論文 "Political Action: The Problem of Dirty Hands"。ウォルツァーが描いた風景は単純で、だからこそ逃げ場がない。テロリストが爆弾を仕掛けた。指導者は捕虜を拷問すれば場所を聞き出せる。拷問は道徳的に悪い。しかし拷問しなければ市民が死ぬ。どちらを選んでも手は汚れる。 「正しい選択肢」が消えた場所で、人はどう振る舞うのか。あるいは、振る舞えるのか。 この問いには答えがない。ないまま、ここに書く。 ウドレールの肘まで ウォルツァーの思考実験を、もう少しだけ丁寧に追ってみる。 ある都市で時限爆弾が仕掛けられた。爆発すれば多くの市民が死ぬ。当局は容疑者を拘束している。この容疑者を拷問すれば、爆弾の位置を突き止めら

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