あたまのなか

Some things do not resolve. These entries sit with what remains open, turning it over slowly, without insisting on an answer.

あたまのなか

赤を知らないし、何もわからない。

あなたは赤について、すべてを知っているとしよう。 波長。およそ625nmから740nm。網膜の錐体細胞が受容する光の範囲。視神経を通じて後頭葉の視覚野へ届く信号の流れ。赤という色の知覚が脳内で立ち上がるメカニズムのすべてを、あなたは完全に理解している。 でも、あなたはまだ赤を見たことがない。 知識は、あなたを救うだろうか。 完璧な牢獄 1982年、オーストラリアの哲学者フランク・ジャクソンは"Epiphenomenal Qualia"という論文で、ひとつの思考実験を提示した。後に"What Mary Didn't Know"(1986年)でさらに展開されたこの問いは、心の哲学における最も有名な議論のひとつになった。 メアリーは天才的な科学者だ。色覚に関する神経生理学を専門とし、色にまつわるあらゆる物理的事実を知り尽くしている。光の波長から、網膜上の化学反応、脳内の神経発火パターン、そして人が「赤い」と口にするまでの因果連鎖のすべてを。ただひとつ、条件がある。メアリーは生まれてからずっと、白黒の部屋で暮らしている。白黒のモニターだけを通じて世界を学び、色というものを一度も見

By Sakashita Yasunobu

あたまのなか

終わらない今日

もし、明日が来なかったとしたら。 目覚まし時計が鳴る。昨日と同じ時間に。窓の外は昨日と同じ天気で、テレビからは昨日と同じニュースが流れている。何をしても、何を選んでも、翌朝にはすべてが巻き戻る。あなただけが覚えている。あなた以外の世界は、何ひとつ変わらない。 こういう想像をしたことがある人は、たぶん少なくないと思う。 映画『恋はデジャ・ブ』(Groundhog Day, 1993年)は、まさにこの状況を描いた作品だった。気象予報士のフィル・コナーズが、ペンシルベニア州パンクスタウニーで2月2日を何度も何度も繰り返す。最初はふざけて楽しみ、次に自暴自棄になり、やがて静かに変わっていく。誰にも覚えられない一日の中で、ピアノを練習し、人の名前を覚え、通りすがりの老人の世話を焼くようになる。 あの映画を観て、多くの人がたぶんこう思ったはずだ。「自分ならどうするだろう?」と。 もっと古い問い ただ、この思考実験には、映画よりずっと古いルーツがある。 ニーチェは1882年の『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft)第341節「最大の重し」で、こんな場面

By Sakashita Yasunobu

あたまのなか

もう一度、最初から

誰しも一度くらいは考えたことがあるだろう。もし時間を巻き戻して、人生の最初からやり直せるとしたら、何かを変えるだろうか、と。 「変える」と答えるなら 何かを変えたいと思うなら、それは今の自分がどこか最善ではないと感じていることになる。あの時こうしていれば。あの選択をしなければ。そう思うのは自然なことだし、誰にだってそういう瞬間はある。 でも、ひとつ変えたら、今の自分のどこかが消える。ある失敗がなければ出会わなかった人がいる。ある回り道がなければ気づかなかったことがある。ひとつの選択を変えることは、その先に続くすべてを引き換えにすることだ。 「変えない」と答えるなら それはそれで、なかなかの覚悟がいる。すべての苦しみ、すべての失敗、すべての退屈な午後を含めて、もう一度まるごと引き受けるということだから。 どちらに答えても、どこか居心地が悪い。この問いには、正解がない。 記憶の問題 ところで、やり直すとき、今の記憶は残るのだろうか。 もし記憶が残るなら、それは「やり直し」というより「二周目」だ。答え合わせのある人生。正解を知っているテストをもう一度受けるようなもので

By Sakashita Yasunobu

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現実か、あるいは

あなたが見ているものは、本物ではないかもしれない。 そしてそれを否定する材料を、あなたは何一つ持っていない。 いまこの瞬間、あなたの五感がとらえているすべて。画面の明るさ、椅子の硬さ、部屋の温度。それらが「実在する」と信じる根拠を、改めて問われたら、あなたは何と答えるだろう。「見えるから」「触れるから」「感じるから」。でも、それは「体験している」ということの言い換えにすぎない。しかもあなたの感覚が映し出しているものは、世界そのものですらない。体験が本物であることの証明には、まったくなっていない。 この問いは新しくない。何百年も前から哲学者たちが取り組み、そして誰もまともに解決できていない。 疑うことだけが確実だった 1641年、ルネ・デカルトは『省察』(Meditationes de Prima Philosophia) の中で、自分がこれまで信じてきたすべてを一度疑い尽くそうとした。感覚は錯覚を起こす。夢と覚醒の境界は曖昧だ。ならば、もっと徹底的に考えてみよう。全能の「悪霊」(genius malignus) がいて、空も大地も色も音もすべてを偽造し、自分を欺いているとし

By Sakashita Yasunobu

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孤独は治らない

あなたがこの文章を読んでいる今、おそらくひとりだろう。スマートフォンの画面か、PCのモニタか、いずれにしても、その光はあなただけの顔を照らしている。 安心してほしい。この記事は、あなたの孤独を癒さない。 孤独について書かれた文章は世の中に山ほどある。「孤独を楽しもう」、「ひとりの時間は自分を見つめ直すチャンス」。そういった言葉が、まるでビタミン剤のように処方される。けれど、それで治った人を見たことがない。見たことがないのは、孤独が病気ではないからだ。もっと正確にいえば、孤独は人間の初期設定だからだ。 治らないものを治そうとするから、苦しい。 ひとりでいることと、ひとりであること 一人でいることと孤独は同じだろうか。 答えは、たぶん、いいえだ。カフェで一人で本を読んでいるとき、あなたは一人だが、孤独ではないかもしれない。一方で、友人に囲まれた飲み会の真ん中で、ふと自分だけが透明になったような感覚に襲われることがある。周囲の笑い声が、自分とは無関係な音楽のように聞こえる瞬間。 あれは、孤独だ。 ハンナ・アーレントは、この感覚の違いに名前をつけた。彼女はsolitudeとl

By Sakashita Yasunobu

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誰のせいでもない

あなたが最後に誰かに怒りを覚えたとき、その怒りには根拠があっただろうか。もう少し正確に聞こう。あなたが怒ったということそのものが、あなたの意志による選択だったと、本気で信じているだろうか。 もしすべてが因果の連鎖で決まっているのなら、犯罪者を罰することに正当性はあるのか。素朴に考えれば「悪いことをしたのだから罰を受けるべきだ」と言いたくなる。しかし、「悪いことをした」というその文の主語は、本当にその人自身なのか。遺伝子、環境、脳の構造、幼少期の記憶、あるいはただの化学反応。「その人」は、いったいどこにいるのだろう。 壊れた時計を叱る人 「育った環境が悪かったから」という言葉を聞くと、多くの人が不快になる。甘えだ、言い訳だ、と。しかし、この不快感そのものがひとつの思考停止であることに気づいている人は、どれほどいるだろう。 決定論(determinism)という立場がある。この宇宙で起きるすべての出来事は、それ以前の出来事によって因果的に決定されている、という考え方だ。ビリヤードの球がぶつかれば次の球が動くように、あなたの脳内の神経発火もまた、それに先立つ物理的条件によって決まっ

By Sakashita Yasunobu

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一体なにがのこるんだっていうんだ

あなたが死んだあと、世界に何かひとつだけ残せるとしたら、何を残すだろう。 こういう問いが、ときどきSNSのタイムラインに流れてくる。深夜のRedditで、匿名の誰かがふと投げかける。返信欄にはそれぞれの真剣さと軽薄さが混ざり合っていて、どれも少しだけ本気で、少しだけ怯えている。 厄介なのは、答えようとした瞬間に、自分が何を大事にしているかが露呈してしまうことだ。本を残すと言えば知性への執着がばれる。人の記憶と答えれば関係への依存が透ける。何も残さないと言えば、それがポーズなのか諦念なのかを見抜かれる。 問いそのものが、罠なのだ。 青銅より永く ローマの詩人ホラティウスは、自分の詩集をこう結んだ。「青銅よりも永い記念碑を、私は建てた」(Exegi monumentum aere perennius)。『歌集』第三巻の最後を飾る、堂々たる宣言。 二千年以上が経って、その言葉は実際に残っている。ホラティウスの自負は正しかった。青銅の像が溶かされても、言葉は写本され、印刷され、いまやデジタルデータとして複製されている。ただし、それを今読んでいる人間がどれだけいるかは、また別の話だ

By Sakashita Yasunobu

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虚空をつかむ

幸せかと聞かれて、黙り込む人がいる。不幸だからではない。幸福が何なのかを知らないからだ。 知らないまま追いかけている。全速力で。行き先も知らずに。 宝くじの当選者は幸せか 1978年、心理学者フィリップ・ブリックマンらが奇妙な研究を発表した。宝くじの高額当選者22人と、事故で身体が麻痺した29人、そして何も起こらなかった一般の人々22人の幸福度を比較したものだ。 結果は直感に反していた。宝くじに当たった人たちは、何も起こらなかった人たちより幸せではなかった。それどころか、日常のささやかな楽しみから得る喜びは、当選者のほうがむしろ少なかった。 ブリックマンとドナルド・キャンベルは1971年に「ヘドニック・トレッドミル」という概念を提唱していた。ランニングマシンの上をどれだけ走っても景色が変わらないように、どれほど幸運な出来事が起きても、人はやがてもとの幸福度に戻ってしまう。快楽に順応する。当たり前になる。そしてまた走り出す。 もしこれが本当なら、幸福を追いかけるという行為そのものが、永遠に到着しない旅ということになる。 走っている実感だけがある。進んではいない。 満足

By Sakashita Yasunobu

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「いつか」は来ない

「いつかやる」。 この五文字ほど便利な免罪符を、僕はほかに知らない。口にした瞬間、何かに向き合ったような気分になれる。やると言った。意志は示した。あとは時間の問題だ。でも、その「いつか」に日付を書き込んだことのある人は、たぶんほとんどいない。 日付のない予定を、予定と呼んでいいものだろうか。 「明日」という逃げ道 動物は先延ばしをしない。 犬は「明日散歩に行こう」とは思わない。腹が減れば食べるし、眠くなれば眠る。「明日」という概念を持たない存在には、先延ばしという贅沢がそもそも許されていない。先延ばしは、未来を思い描ける知性が生んだ副産物なのかもしれない。猫はただ今を生きている。猫が「あとでやろう」と思いながら昼寝をしているかどうかは分からないが、少なくとも罪悪感はなさそうだ。 「明日」は人間が発明したなかで最も優秀な逃避先かもしれない。何しろ、明日は永遠に一日先にある。今日がどれだけ進んでも、明日はつねにその一歩先にいる。追いつけない。追いつく必要もない。終わらない今日がやってこないかぎり、明日はいつだって逃げ道であり続ける。僕たちはそのことを薄々知っている。 準備

By Sakashita Yasunobu

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10年の値段

売り物 自分の寿命の10年を差し出せば、何かひとつ、望むものが手に入る。 欲望の棚卸し 「一生お金に困らない生活」と答える人がいる。「完璧な健康」と答える人がいる。「愛する人の幸せ」と書く人もいる。 何を選ぶかは自由だ。でも何を選んだかで、その人の切実さが透けて見える。お金と答えた人は冷たいのではない。おそらく今、お金に困っている。ただ、お金がなくなっても何も解決しないのと同じように、手に入れたところで何かが変わる保証はどこにもない。健康と答えた人は、きっとどこかが痛い。愛する人の幸せと答えた人は、たぶんその人をうまく幸せにできていない。 問いそのものにはたいした意味がない。答えのほうに、その人の輪郭が滲む。 年の不平等 ところで、10年とは何だろう。 20歳から30歳までの10年と、70歳から80歳までの10年は同じだろうか。可能性に満ちた10年と、静かに閉じていく10年を等価と呼べるだろうか。 厄介な問いだ。「10年」という数字の裏には、つねに「どの10年か」という別の問いが隠れている。そしてたいていの場合、どの10年を差し出すかは自分では選べない。もしかする

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正直は美徳ではない

あなたは今日、何回嘘をついた? 数えられたとしたら、それ自体が嘘だ。数えられなかったなら、それが答えだ。 私たちは嘘をつく。朝起きて「元気です」と言い、興味のない話に「へえ」と頷き、鏡の前で「まあ悪くない」と自分を騙す。息をするように嘘をつく。そしてそのことに罪悪感を覚えない。覚えてしまったら生きていけないからだ。 この文章は、嘘をつくなという説教ではない。正直であれという美談でもない。嘘と正直について私たちが語るとき、その言葉がどれほど曖昧で、どれほど頼りなく、どれほど何も解決しないかを、静かに、絶望的に、確かめるだけだ。 答えはない。最初から。 沈黙は嘘より静かに刺す 「嘘をつかない」ことと「本当のことを言う」ことは同じではない。 友人の髪型が似合わないと思ったとき、「似合わないよ」と言わなかったとする。嘘はついていない。でも、本当のことも言っていない。この沈黙は正直だろうか。 私たちの日常は、この種の沈黙で満ちている。言わないことで守られる関係。触れないことで維持される平和。それは優しさかもしれない。でもそれは同時に、真実を意図的に隠しているという点で、

By Sakashita Yasunobu

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忘れられるとしても

100億年後、地球はもうない。太陽は膨張して赤色巨星となり、この惑星はその熱に飲み込まれるか、あるいはそれよりずっと前に海が蒸発して、大気が散り、ただの岩の塊に戻っている。 もちろん、そんなことは今夜なにを食べるかとは何の関係もない。 けれど、ふとした夜に、この問いは静かにやってくる。 今やっていることに、意味はあるんだろうか。 100億年という数字は、正直なところ、問いの本質ではないと思う。100年で十分だ。もっと短くてもいい。人生を週に換算すればおよそ4000週間。その有限さは、もっと手触りのあるものになる。 よく言われることだけれど、ほとんどの人は死後三世代ほどで忘れられる。曾孫の世代になれば、あなたがどんな顔をしていたか、何が好きだったか、どんな声で笑っていたかを知っている人は、おそらくもういない。 こう書くと残酷に聞こえるかもしれない。けれど、事実としてはごく穏やかなことだ。誰もあなたを恨んで忘れるわけではない。ただ、時間が静かに流れていくだけのこと。 この種の問いに向き合った人は、昔からいる。 パスカルは17世紀に、『パンセ』のなかでこう書いた。 この無限

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